〔連載小説〕
VIVA 70歳!
さいとう
きたみ著
第六章 (つづき)
冬彦:その6
結婚以来、妻の笹子だけしか知らぬ冬彦からすると次から次へと新しい恋人らしきものをつかまえて来る春介のことが気になる。特に外国人の女性との交際が理解しにくい。春介にそれを直接問いただしてみたことがある。夏男も同席していた。
「外国人、特に白人の女性たちはお前に限らず日本の男のことをどう思っているのかねえ?」
春介はあっけらかんと言う。
「セクシーだと思っているさ。」
冬彦も一般の日本人同様、欧米の映画を数多く観てきているし、そこに登場する多くの欧米スターの美しさには、大いに魅せられてきている。が、どうも彼女たちが日本の男に切ない思いを寄せるという実感が湧いてこない。
「俺たち日本人の男が金髪や青い目、白い肌の女性を美しく思い、あこがれたりするのは異常なことか?」
逆に春介に質問される。
「いや、正直、美しいと思うしセクシーだとも思う。」
「じゃあ簡単だ。そういう金髪美人たちは髪が黒く、目が黒く、体毛の少ないアジア系の男を美しくセクシーに感じるのだ。エキゾチックなのはお互いさまなんだ。特に体毛はキーポイントだ。白人は一般に体毛が濃い。胸毛など当たり前だ。女性だって毎日、脛毛を剃らなければならぬ程だ。勿論、それが互いに好ましい連中だって多い。いや、それが普通だろう。しかし、中には無毛に近い男の肌に強烈に惹かれる女性だって現れる。」
そういうことなのだと春介はくったくがない。
「肉体的特徴だけでなく精神的な面ではどうなんだろう。」
夏男も言葉をはさむ。
「東洋の男の静かさや無表情さはセクシーなんだってさ。」
春介の答えは簡単明瞭である。
「おまえたちアメリカの作家のジョン・アップダイクの兎シリーズを読んだか?」
二人は同時に頷く。
「あの4部作の3部だったかに“金持ちになった兎”がある。アメリカの田舎町でトヨタのディーラーになった主人公は典型的なプチブルになっている。仲間の夫婦たち4組でカリブ海の島かなにかに出かけて行ってワイフ・スワッピングする場面があるだろう。」
冬彦と夏男はしばらくその小説のことを思い出そうとし、頷く。
「スワッピングの予感で少々エロティックな気分になっている内儀さんたちが、どんな男が最もセクシーだと話し合うところがある。4人の内儀さんたちが最もセクシーだと思うのは東洋系の男だった。そうだろう?」
そう言えばそうだった。
「だいたい、男と女の中では人種や国籍なんぞのことは問題にならない。互いに十分通じ合えないカタコトの異国語同士だって時にはよりセクシーに感じることがある。いつも言うとおり恋というものは論理でも倫理でもない。それらからの脱却をしようとする行為なのだ。でも冬彦みたいな真面目人間は近寄らない方が良い。火傷するからね。」
夏男や春介の生きかたを見ていると彼らが死後のことを全く頓着していないことにおどろかされる。
「墓? そんなものは要らない。俺たちが死んだ後は灰にしてもらって庭にでも撒いて貰う。そのことについてはカンナも全く同意している。」
夏男はそう言う。
「墓か? このまま普通に行けば年上の桜子が先に死ぬ。彼女は故郷のナントカいう山の頂き付近の霊場にすでに自分の墓の用意をしている。俺も入りたかったらどうぞ、と言われているけれどまだそこを見てもいない。息子たちがどうしたいかで俺はどうでも良いと思っている。」
春介の言い分もあっさりしたものだ。冬彦は本当にそういうことで良いのだろうか、あまりにも墓とか先祖とかいうものに対して軽々しく考えすぎているのではないかと思う。家族は出来うる限り同じ墓に入るのが自然なのではないか。少なくとも冬彦は妻の笹子と共に居たい。子供たちは娘だけなので異なる墓に入ることだろう。しかし、あの可愛い孫たちには年に一度だけでもいいから自分の墓に詣でてもらいたい、そう願うのだ。
今の若い者はどうにもならないと批判するのは昔から歴史上絶えず行なわれてきたことだと言う。その例にもれず冬彦も今の日本の若い人たちがどう未来をになっていくのか不安になることがある。春介から聞いたことだが、チェルノブイリの原発事故の後周囲一帯汚染され、全ての動植物が死滅した。が、驚くなかれ、その2,3年後、全く新たな動植物が強烈な放射能の中から発生してきたという。 我々人類だってそれに近い。酸素という全てのものを腐敗させ錆びつかせる言わば毒を摂取して生を保っている。考えるまでもなく冬彦の世代も今の若者たち同様、先輩たちから危ぶまれて生きてきた。特に戦後しばらくの間はそれら批判に抗弁しにくい時代が続いた。何と言っても先輩たちは戦争で仲間たちが次々と命を落とすという体験をして来ている。死にまさる極限状況はない。そういう中で育まれて来た先輩たちに対して無言で答えるしか術がなかった。ダメだダメだといわれ続けても存在するという自然がある。悲観的になっていたらきりがない。敗戦のどん底から毎日、毎日進歩発展して来た時代に生を受けて来た冬彦たちの世代がもしかしたら最後の成長期体験世代なのかとも思う。移り変わる世相にばかり気をとられ、遂に教養なるものを身につけることが出来なかった。芸術に触れず、古典も学ばず、信仰とも無縁がった。日々豊かになる中ではしゃぎすぎていたかも知れない。チェルノブイリの例は極端としてもどの世代においても人間は良い方向に向かうこともあるだろう。物質的社会から精神的社会に移ってゆく可能性もないとはいえまい。
冬彦にも美しい白人女性との忘れがたい体験がある。春介のように恋だとか情事とか言うものとは無縁ではあったが、思い出深い。短期出張でロスアンジェルスに出かけたことがある。学友の一人がその地で映画関係の仕事をしていた。彼の小ざっぱりしたアパートに泊めてもらい、夕食を近くのイタリアン・レストランでとっていた。映画についての話題が主だったが、好きだった女優は誰だったかという話になった。
「何と言っても、キム・ノバークだね。白痴美だとか大根だとか酷評する連中がいるそうだが、あのプラチナ・ブロンドと死人のような目には圧倒されるね。」
と冬彦が言うと、その友人が大声を上げて笑い出し思ってもみないことを言った。
「なんだ、そうなのか。それじゃあ明日彼女に会いに行こう。」
「何?」
冬彦はスクリーン上の女優などというものは、スクリーン上に存在しているのであって、実は実在していて我々同様普通の生活をしているなどというイメージではなかったので、憧れの女優に会えるなんてことが現実にあるとは思ってもいなかった。日本の地方の映画祭に彼女を招待するという件がありその友人が彼女との交渉をしているのだと言う。いずれにせよ近々会わねばならないので丁度良い機会だと言う。ろくに口もきけずにいる冬彦をその場に残し彼は電話をかけるために席を立った。
「OK, OK。明朝11時、場所は彼女の家。」
その夜、友人の家のベッドの中で薄明かりがもれるカーテンをながめ、何度か寝返りをうったものだ。
彼の車でビバリー・ヒルズのキム・ノバーク邸を訪れた。広大な屋敷ではあったが大スターの家と言うには何だか閑散とした印象であった。大きなプールには水がない。のそのそと迎えに出てきた犬も老犬なのか何かパッとしない。薄汚れた自転車が通路の真ん中で横転している。紫色のブラウスにジーンズ姿のキム・ノバーク本人と握手した時にはさすがに緊張したが、想像していたようなドラマティックなムードは全く無かった。もそもそと私の最大のアイドルはあなたです、というようなことを言ってはみたが、そんなことは言われ慣れているとでも言うように友好的ではあるが義務的とも言える笑顔が返ってきただけだった。短い会談はすぐに終わり二人は帰途についた。
「彼女はチェコから来たので訛りが強い。それもあって無口なんだ。芸能人なんて直接会うものではないだろう。夢は夢と夢のままにしておく方が良い。」
そんなようなことを友人は言う。その後、時折この時のことを思い出すが、どうしてもスクリーン上のキム・ノバークと直接会った本人とのイメージがつながらない。春介だったら、憧れの女優に会えたらダメはダメもとで口説いていたのかも知れないが、どうもそういう状況などになりっこないというのがこの女優との出会いであった。
ある時、夏男が常々感じていたことの質問を春介にしたことがある。
「外国人の女性と愛し合っている時日本の女性とは随分外見が違うことに戸惑うことはないのか。例えば、鼻が高すぎるとか、背が高すぎるとか・・・・。」
「外見は確かに違うなあ。アフリカ系の美人など肌の色だけでなく体格そのものが日本の女性とは全く異なる。一例を挙げれば肩幅だ。日本人の俺なんかよりしっかりしている。抱いているというより抱かれている感じだね。しかし、彼女たちの性器の美くしさは見事と言うしかないね。黒い肌との比較でそう見えるのかも知れないが、思わず見とれてしまうほどピンク色に輝いている。」
「だから、そういうものを含めて異形なものとして映らないのかという質問だ。」
「異形ねえ、それはそうだ。が、異形なものでも美しいものは美くしいし可愛いものはかわいい。例えば、夏男、おまえは犬が大好きだが彼らの顔を可愛いと思うだろう。だが、よく見てみろ、犬なんて顔中毛だらけだし、鼻は濡れているし、狼同様鋭い牙がある。異形中の異形だ。でも、ちゃんと器量の良い犬、悪い犬があるんだろう。異形だろうが何であろうが可愛いものは可愛いと思える能力を人間は本来持っているものなのだ。」
女性美と犬とを一緒にするのはいささか飛躍があるようにも思えたが、しかし、言っている意味は理解できた。女性というものに対してもあまりに類型的な思い込みに立っていたようにも思う。
「偏見は教養を身につけるときの最大の敵だぞ。」
春介は止めをさすように言う。
老人文学の追求ばかりが生きる目的でもあるまい。冬彦は時折残る人生を孫のために費やしてみようと思う。兎に角 誰しも言うように孫は可愛い。勿論 一種の緊張を伴って育てた子供たちとは違って孫に対してはいつでもそれを放棄できる無責任さがあるという指摘もその通りだと思う。が、明白なのは自らがどんどん老いて行き進歩や成長とは逆に退歩や衰えを自覚しているとき、孫たちが日々刻々成長して行く姿は感動的でさえある。まさに3日見ぬ間に変化して行く。この柔軟な心身の成長期にこそ、より良き方向に導くのは非常に重要で価値があることと思う。子供たちにしたくてもしなかったこと、出来なかったことを全力を上げてやってみたい、そうも思う。この孫たちの親、つまり自分の娘たちを見ていると、自分が親であった時もそうであったろうが、必ずしも適切な教育をしているとは思い難い。子供たちの幼いが故の反抗に対して、まともに感情的になりどなったり叱ったりしている。父親たちに至っては、これで本当に実の親なのかと疑いたくなるほど子育てに無関心である。往時のように三世代で共に住むことが出来たらどんなに良いことかと思う。妻の笹子に皆一緒に暮らせないものかと相談を投げかけたのだが、笹子の答えはしごくあっさりしたもので、先方さんはそんなこと望んでいませんよ、というものだった。娘や婿に遠慮してそのために孫たちの将来をダメにしても良いのだろうかと真剣に思いつめることもあった。冬彦の新婚時代、笹子の両親の広い家に同居しないかという誘いがあった。特に長女が生まれてからは誘いというより要請さえあった。勝手なもので、その時は深く考えるまでもなく断ったものだ。あの気難しい義父に娘の育て方に口など出させるものかとも思った。そして、いつも旦那さま、旦那さまで夫に対しろくに抗弁ひとつ出来ない義母の姿はわが娘に良い影響などありっこないとも思っていた。しかし今、孫を見る時自分は義父や義母と違い孫の将来の幸せという一点だけを見つめ、そこに全てを集中させることが可能だと思える。しかし、現実にはその実現はほど遠いものでしかない。
(つづく)
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