2009年(平成21年)8月20日号

No.441

銀座一丁目新聞

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安全地帯(258)

信濃 太郎

関東大地震と文化的余震(大正精神史・関東大地震)

外人記者が見た関東大地震「正午二分前」(訳向後英一・早川書房・昭和42年8月31日初版発行)の著者ノエル・F・ブッシュは「関東大地震の実際的影響は大きかったがその文化的余震はリスボン地震(1755年11月1日)、サンフランシスコ地震(1906年)などと比べてはるかに少ない」と面白い指摘をする。この本が出版された時は関東大地震からすでに44年たっている。
 著者のブッシュは書く。リスボンの大災害は、ヨーロッパの文化全般、特に文学に対して、深刻かつ永続的な影響を与えた。ライブニッツ(1646−1716)の哲学に致命的打撃を与え、ヴォルテール(1694−1778)に『カンディッド』(1759)を書く啓示を与え、ジャン・ジャック・ルソー(1712−1778)の名声を高めることによって、フランス革命の礎石を築き、それ以後の世界の歴史に大きな影響を与えたのであったという。
 この3人は17、18世紀の代表的ヒューマニストである。ヒューマニズムはその時代の権威に対する批判と抵抗を生命として突き進んで行く。リスボンの地震は11月1日の万聖節の午前9時半に起きている。ミサに出ている時間であった。ほとんどの信心の厚い人々が危険にさらされた。このころは神がすべてのことに直接責任を持っているとみなされていたので、神は人の不意をついてもよいのか、神は何故ポルトガル人、特にリスボン市民だけを嫌っていたのだろうかという疑問を抱く。ヴォルテールは「今はなきリスボンは/快楽にふけるロンドンやパリ以上に/悪徳の都だったのだろうか?/リスボンは廃墟と化し/パリは楽しくダンスを踊る」と詩を綴る。
 サンフランシスコ地震の文化的影響について1935年に作られたネルソン・エディートジャネット・マクドナルド共演によるミュージカル映画やウィリアム・プロンソンが1959年に出版した「地は揺れ、空は燃えぬ」を含めてアメリカの文学ジャーナリズムはいろいろの形で記録を残しているとしている。関東大地震の文化的余震は「大惨事が起こらなかったに等しいさへ言える」とまで表現する。
 果たして、日本の文化的余震はどうであったのか。芥川龍之介は大正12年10月号の「中央公論」に「大震雑記」を寄せる。その年の8月、親友の画家小穴隆一(俳号一游亭)と鎌倉に遊ぶ。宿の庭先で藤の花を、さらに八重の山吹も花をつけている。珍しいことに小町園の庭の池に菖蒲も蓮も咲き誇っている。一游亭の句が紹介されている。
 「山吹を指すや日向の撞木杖」
 「葉を枯れて蓮と咲けるや花あやめ」
 季節外れに咲く花を見て芥川は会う人ごとに「天変地異が起こりそうだ」といった。その予言が当たって久米正雄などは敬意を表したとある。吉原などの焼け跡には「浜町河岸の船の中におります」の張り紙が無数にあった。「僕はこの一行の中に秋風に船を家と頼んだ封間の姿を彷彿した」と記す。「大地震のやっと静まった後、屋外に避難した人々は急に人懐しさを感じだしたらしい。向こう三軒両隣を問わず、親しそうに話しあったり、煙草や梨をすすめあったり、互いに子供の守利をしたりする景色は渡辺町、田端、新明町―殆どいたるところに見受けられたものである」大勢の人々の中にいつにない親しさの沸いているのはとにかく美しい景色だった。僕は永久にあり記憶だけは大事にしておきたいと思っているという。
 関東大地震は9月1日午前11時58分44秒に起きた。東京では第一回の揺れで一度の14,50か所から火災が起きた。横浜も火の海となり、鎌倉、逗子など湘南地方も被害が及んだ。東海道線その他で列車の脱線転覆事故24列車で即死は120名を出す。倒壊家屋・焼失家屋13万5千戸、死者9万1802人、行方不明4万2257人。9月2日には朝鮮人が暴動を起こしたとか井戸に毒物を投げ入れたという流言が乱れ飛び、自警団人に朝鮮人が千余人虐殺された。9月16日には大杉栄(39)、伊藤野枝(29)大杉の甥宗一(7)が憲兵大尉甘粕正彦(陸士24期)に殺害される事件が起きた。この事件については角田房子著「甘粕大尉」(ちくま文庫)に詳しい。震災から50年後の昭和48年、大杉の命日・9月16日、静岡市で彼の墓前祭が行われた。これに出席した荒畑寒村派その夜の講演の中で「大杉虐殺事件の真相は不明というほかないが、一大尉の個人的考えで殺されたのではなく、軍の意図によるものであった」と語り「大杉を認めるものも認めないものもこの思想家を無残に虐殺した軍を許すことはできない」と結ぶ(前掲「甘粕大尉」)。荒畑寒村は関東大地震の時はロシアに亡命中で6人の仲間とセダンカで共同生活をしていた。大地震を知ったのは9月4,5日ごろで、沿海州共産党の機関紙の記者から「東京から門司まで一挙の壊滅した」と聞かされた。数日後に到着した大阪の新聞で大震災の模様が分かって安心したという。「寒村自伝」(岩波文庫)には「「当初の想像よりもはるかに狭かったことは、いくらか私の心を安めたが、それでも同志、友人、家族の安否に関する危惧の念は依然として減じない」と記している。
 甘粕が満州の地で死んだのは昭和20年8月20日午前6時5分、日本降伏の5日後であった。すでに「長春」と旧名に戻った新京の町には、今入城したソ連陸上部隊の更新の騒音が響いていたと角田房子は「甘粕大尉」の最期を完結する。
 地球物理学者、寺田寅彦は関東大地震が起きると各地の被害調査に当たる。11月には「旋風について」講演する。翌年5月、地質学会で「大正12年9月1日の地震について」講演、昭和元年1月東京帝国大学地震研究所員となる。翌年3月地震研究所の教授となる。寺田寅彦が「すっぽんの鳴き声」で次のようにいう。
 「芸術は模倣であるというプラトーンの説はすたれてから、芸術の定義が戸惑いをした。ある学者の説によると、芸術的製作は作者の熱望するものを表現するのだけでなく、それを実行することだそうである。この説によって試みに俳句を取り扱ってみると、どういうことになるであろうか。恋いの句をつくるのは恋をすることであり、野糞の句を作るのは野糞を垂れることである。叙景の句はどうなるか。それは十七文字の中に自分の欲する景色を再現するだけでは行けなくて、その景色の中に自分が飛び込んで、その中でダンスを踊らなくては、この定義に沿わないことになる。これも一説である。少なくも古来の名句と浅薄な写生句などとの間に存する一つの重要な差別を暗示するもののようである。
 「客観のコーヒー主観の新酒哉」(昭和3年作。寺田寅彦「俳句と地球物理」・角川春樹事務所)関東大地震が寺田寅彦に与えた影響は計り知れないと思う。しかもそれが彼の俳句をより進化させたといえる。「客観のコーヒー主観の新酒哉」は大地震を経て初めて生まれた句だと私には思えてならないのだ。