2009年(平成21年)8月20日号

No.441

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花ある風景(356)

並木 徹

春雨の衣桁に重し恋衣   虚子

 手元に「高浜虚子全俳句集」(上)(下)がある。私が毎日新聞の出版局長時代に出版した本である(昭和55年4月印刷)。一応発行人になっている。見出しの句のほか「怒涛岩を噛む我を神かと朧の夜」「先生が瓜盗人でおわせしか」「死ぬること風邪を引いてもいふ女」などの句に圧倒された思い出がある。折りに触れて(上)748ページ、(下)797ページのこの大書をひも解いていた。
 季刊「もん」2009年夏号が「高浜虚子」を特集していた。稲畑汀子が「多彩な顔を持つ人」で面白いことが書いている。明治36年虚子がイギリス留学から帰国し神経衰弱に悩んでいる夏目漱石に子規を囲んで月一回開いている会合「山会」の入会をすすめ、迎えに行くと、漱石から原稿を差し出された。漱石は題を「猫伝」とした。虚子が読んで書き出しの文章を取って「吾輩は猫である」として明治38年1月号の「ホトトギス」に掲載したところ、漱石は一躍文壇の寵児となった。虚子自身小説家を願っていたという。虚子には多分に編集者としての才能があった。
 大学教授の坪内稔典は虚子が「古池や蛙飛び込む水の音」の芭蕉の句に斬新な解釈をしたことを紹介している。「冬眠から覚めた蛙がいっせいに池に飛び込む『天地躍動のさま』(虚子俳話1963年)を読んだ」というのである。通説は一匹の蛙のたてた水音がもたらす静寂を表現したとされる。英訳も蛙は単数である。虚子の解釈も成り立つ。「高浜虚子全俳句集」の解説を担当した松井利彦は「虚子の場合は、根底に常に人間を残し、その人間としての温かさを基盤として事物の写生を進めている」という。虚子の文学観は「生身に即した、しかも現実的意義をもった文学世界の形成、これが虚子俳句の世界であった」とする。とすれば「天地躍動のさま」と解釈しても何ら不思議はない。
 昭和29年11月、80歳の時、俳人として初めての文化勲章を受章する。それまでに虚子は「無邪気に見ているうちに面白いと思ったところを見つけて。それを文章や句にすると自づから姿の良い句や文章ができるのです」の境地に達する。なるほどと思うが、文章は何とかまとまる。俳句がそれほどうまくいかないのはどうしてか。散文と詩の違いであろうか。地下の虚子に問いたい。
 虚子は昭和34年4月8日、鎌倉の虚子庵で死去する。享年85歳であった。この年「庭梅の今を盛りと老いにけり」の句を残す。