2009年(平成21年)4月10日号

No.428

銀座一丁目新聞

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〔連載小説〕

 

VIVA 70歳!

            さいとう きたみ著

 

第四章 (つづき) 

春介:その4

 

春介は数ヶ月ぶりに日本へ戻った。久ぶりに日本へ帰る時いつもながら感じるのは、日本の若い女性たちの非存在感だ。一応に小柄でほっそりしていて年齢不詳である。いや性別不詳なのだ。小柄のゲイが女装したのかとさえ思える。髪形もおおむね一様でファッションも特に個性を感じさせるものは少ない。男の子も多くも毛髪を染めている。そういえば日本と韓国が共同主催国だったワールドサッカーの試合をアメリカのテレビで観た時、日本選手のほとんどが金髪ないしは、それに近い色で髪を染めていたことを思い出す。一緒に観ていたアメリカ人の一人が、日本にこんなに混血児が多いのはやはりヴェトナム戦争の時のアメリカ兵との結果なのかと問われ、答弁に困ったものだ。今さら若い者たちのファッションに口を出す気はないが一種、異様な感じにはとらわれる。しかし一週間し、二週間過ぎると当たり前の日本の情景として受け入れている自分に驚く。そして再び海外へ戻った時、そこの国々の人々があまりに男性は男性的、女性は女性的なのに圧倒される気持ちにもなるのだ。
帰国してすぐテレビや週刊誌が一日として欠かさず一人の初老女性のことを取上げているのに気づいた。往時、美智子妃殿下がミッチーという愛称で呼ばれていたように、その女性もそれ風の愛称で呼ばれているから一種の人気者なのかと早合点していたが、どうもそうではなく酷く嫌われているようなのだ。有名野球監督の妻だと知ってよくよく写真などを見れば、何と春介がごく親しくしていた女性だった。春介は20代の後半から30代の前半にかけてボウリングの仕事をしていたことがある。全国に急激にボウリング場が増え、ピーク時には東京の港区などは500人につき1レーンのボウリング場があるとさえ言われたブーム時である。このブームに目をつけた一人の有力政治家のブレーンに頼まれ、ボウリング場と当時三社あったメーカー、プロボウラーなどをまとめて日本ボウリング協議会などというものの結成に参加し事務局長的な立場を担っていた。その頃、時の首相の関係者から紹介されたのが、この話題の女性だったのだ。やれ学歴詐欺だ、前歴不明だ、などと袋だたきの状況である。態度が不遜だという点だけは何となく頷けるところだったが、あとはどうでも良いようなことをまさに重箱の隅を突っつくように執拗に攻撃を受けている一瞥以来、この3,40年間に数度彼女とすれ違ったことがあるが、何故かいつもクラシックの音楽会の会場で、それもあまりポピュラーとはいえないヤナーチェックのオペラだったり、ショスタコーヴィチのシンフォニーだったりなので、相当なクラシック音楽の通なのかと、実は春介が知る彼女の人となりからの印象とはかけ離れているのに意外性を覚えたものだ。いずれにせよコンサート・ホールの廊下やロビーでのこと、一言、二言あたり障りないことを言い交わすだけであったから、特に彼女のことを思い出す機会もなかった訳だ。春介より少し年上の彼女と親しい関係になったのは、そのボウリングのビジネスに関わっていた時で、彼女がボウリングのボールの輸入の仕事をしていて、それを出来うる限り支援するようにとの依頼だった。詳細はよくは覚えてはいないが少しは役に立ったのかも知れない。記憶に残っているのは初対面の時、当時としても人目を引く大型アメ車のオープンカーで待ち合わせの場に現れたことだ。後に親しくなってそのことを持ち出してみると、あなたを驚かそうと思って友人に借りて来た車よ、とあっけらかんと言ったものだ。ある夜、二人で赤坂で食事を共にした時、兎に角暑い夜だったので何か涼しいことをしようということになり、思いつきで歩く距離にあった出身高校のプールに誘ったことがある。本来夜間立ち入りは禁止であったと思うが、母校だということで甘えていたのだと思う。勿論、水着などないので素裸で冷たいプールに飛び込んだのだが、別に期待もしていなかったのに彼女もスルスルと全裸になり一緒に泳ぎ始めたのだった。プールサイドで両手で胸を隠し、そっと片足づつ入って来た彼女が少し恥ずかし気に少し緊張し少しはしゃいでいるその姿が愛らしかったことを覚えている。当時アメリカ人の夫がいて、その間に二人の小さな息子がいることも聞かされていたが、彼女との関係は1,2年の間に何となく解消してしまったものだ。日本で知った彼女のいわば大騒ぎの最中、春介を知る女性週刊誌の編集長から突然電話があった。彼女の身辺を調査していると3,40年前に二人の息子の名にちなんで設立された彼女のボウリング輸入会社の謄本がみつかり、そこに役員として春介の名があったと言うのだ。執拗に二人の関係を問われる破目となりほとほと参ったものだ。事実、彼女の会社の役員になっていたことさえ記憶にないのだと逃げの一手で、ついにはあまりにめんどうなので予め購入しておいた航空券を変更し、予定より早く日本を脱出したものだった。しかし、あの事件は一体何なのだったろうか。よくは知らぬが彼女が恰も一流の評論家でもあるように人気テレビ番組で大口舌をふるっていたことが人々の怨嗟や嫉妬に火をつけ、遂には憎悪や軽蔑にまでつながったということのようだ。今、どんな豪邸に住んでいるかとかベンツの新車に乗っているとか、流行の先端の高価な衣服をまとっているかということが非難されているばかりか、遂には彼女は米軍相手のパンパンだったと言われたり書かれたりしている。パンパンなどという言葉は死語かと思っていた春介には事実がどうであったかはいざ知らず、ただただ馬鹿気たことごとに感じられた。別に重罪を犯したり殺人をした訳でもない初老の一女性がまるで日本一の極悪人のようにマスコミにたたかれ続けていることが異様だった。そういえばかつて、赤ヘルを被った女性団体のボスや何やらセックス中に潮を吹く女性などがマスコミに取上げられ日本中が彼女らを知っていたということがあった。勿論、外国にもゴシップ・マスコミやイエロー・ペーパーはいくらでもあり、ほどが過ぎる噂を振りまくことはある。ダイアナ妃へのイギリスの一部マスコミの報道も度を過ぎていたものだった。今回の例だけでなく日本のマスコミの画一的な報道姿勢というものには不信感を持たざるを得ない。春介自身も何度か言われも無くマスコミの餌食にされたことがある。いつであったかアメリカから帰る日本航空の機上で久方ぶりに日本の新聞を見たのだが、一般紙はもとより経済専門紙までが一面のトップ記事で相撲の横綱と女優が婚約したという記事を見つけたことがある。マスコミを一方的に批判し、諸悪の根源のように言う人たちもいる。春介自身も時には感情的にならざるを得ない時があった。わけても大新聞や大テレビ局の連中のとてつもなく高慢な態度や、週刊誌の一方的な報道ぶりには心底傷ついたこともある。しかし70歳を迎えた今、冷静に考えてみると誰かも言っていたようにマスコミに非があるとしてもそれはいわば市民の鏡のようなもので、マスコミと平均的市民感情とは共存しているものなのかも知れない。年を取るごとに人間は保守的になるというが、こういうマスコミを含めて、一般的な市民感情というものが、春介を少しばかりだが日本嫌いのような気分にさせている一つであると思わざるを得ない。このマスコミの袋だたきにあった女性が本当はどういう人だったのか、春介はわずかの間の付き合いだったから良くは分からない。また、分かりたいとも思わない。しかし、今、彼女のことを改めて思い出してみると、他にも彼女と似たような女性たちが居たと思う。昭和12年、1937年に生まれた春介より少し年上の女性たち、それぞれ全く別の人格と境遇の中に居るが、どこか一部共通している面がある。第一、彼の妻、桜子もその仲間である。仲間という表現は奇妙なのかも知れない。同類とでも言うべきか。終戦時に小学校二年生でしかなかった春介たちより少し年上だった彼女たちは小学校高学年か中学生であった。多感な少女期に敗戦という激烈な社会の変化を心身共に春介の世代より、より強く受けたことだろう。もっともっと世間とか大人たちに、言ってみれば人間というものに根底からの不信感を抱いたのではなかろうか。人さまざまで、その体験からの出発点はそれぞれ異なった方向へ向かったであろうし、表現もまた個々異なるのだろうが、よく見つめるとどこかに少しづつではあるが共通な部分がある。すぐに思いつく同類の一人は渋谷で店を持っていたT・Mである。高校出でOLとなりシャンソン歌手からミステリー作家になった人だ。当時としては比較的めずらしく朝まで店を開けていたので、春介のみならず冬彦や夏男もその店にはちょくちょく出入りしていた。この作家・歌手ママは大柄で妙に明るい女性だった。何よりも日本人の女性にはめずらしく、まるで外国の女性のように大声で哄笑をする。笑いというものは、いじいじせずに100パーセント痛快であるべきだという思い込みのようなものがある。あの野球監督夫人もそうだった。思わず周囲の人々が振り返るほどの笑いだった。桜子もそうだ。おかしい時は天井に向かって吹き上げるように笑う。やはりバーのママで下北沢酒場街の元祖のような人を知っている。カラフトから引き上げて来てすぐに両親を亡くし、それこそ女の細腕一本で幼かった弟たちを育てる。10代の少女にとっては大変なことであったに違いない。このママも渋谷のママの店に連れて行き、桜子や監督夫人もそれぞれ連れて行ったことがある。一様に彼女たちはこの店の常連とも言える客になった。常連と言っても互いが仲良い友人になったというわけではない。相互の女性同士の激しいとさえ言える相克もあった。が、ひとつ彼女らはこの店では心おきなく哄笑ができたということだ。渋谷ママの個性だけではなく天井のランプが等しく女性の派手なパンティーで飾られていたり、働くウエイトレスたちがあからさまにレズビアンであったり、するこの店の特色は勿論、日本の男たちの好奇心を刺激しているようでいて実は女たち、特に中年の女性たちが解放される場としての要素を持っていた。後に流行するホストクラブにも似て、女らしいつつましさや貞淑さを脱ぎされる場所であった。今、あの店はどうなっているのだろう。女たちの哄笑を懐かしく思い出す。春介は思う。女性は強しとは言え、実は様ざまなところで男性以上に傷つこことがあるのではないか。男なら顔から火が出るような恥ずかしいことも敢てして来たにちがいない。酒を飲む時くらい微苦笑やニヤニヤなどほっぽり投げてカカ大笑しよう、そうしてオーバーに言えば人生の澱のようなものをひと時でも忘れ去ろう、そういう決意のようなものがあるのだ。そう言えば夏男が詩人のY・Yに会ったのもこの店だという。春介がY・Yに会ったのも、彼女とともに青山の店の歌を作った歌手との初対面もこの渋谷の店だった。青山のママもこの渋谷の店の常連だった。放歌高吟したり可愛い異性を物色したりは男だけの特権ではない。自立している女性にだって時にはそういう異次元とも言える場が必要なのだ。そう彼女たちの哄笑が主張している。あの袋だたきされた監督夫人も、決してへこたれずに立ち上がることだろう。どんなに人に嫌われようが、痛いほど自分自身の非を認識しようが、そんなことあの敗戦の日々の体験を思えばどうって言うことはない。彼女たちの哄笑のもとには彼女たちの先輩、終戦当時、すでに成人に達していた日本女性たちとの対比があったと思う。明治以降、モダンガールもあったろうし女権拡張も平塚雷鳥の例だけでなく多くの日本婦人たちが女権の確立をめざした。しかし、おおかたの女性たちは良妻賢母となることを求められて来た。あのつらい戦中戦後、女たちは想像に絶する苦難の道を強いられ、そしてそれに耐えて来た。今人前で哄笑をする女性たちはそういう母や姉たちをまざまざと見続けて来た。それら先輩たちへの感謝も尊敬も持っている。しかし女は忍従だけでは生きて行けないと言うことを敗戦という一大事件で発見する。忍従の根底には女性としての謙虚さ、つつましさがある。が、敗戦という事件はそんな女性のあるべき姿などでは生存競争には打ち勝てないという事実に直面した。彼女らは大多数の女性からの冷たい視線を浴びながらも立ち上がった。そして人々が驚き見つめるであろうことを承知の上で大声で笑ったのである。大声で笑い飛ばそう、そう生きて行って欲しい、春介はそう思うのだった。青山のママが整形美人だろうが、あの歌手が今は売れていなかろうが、下北沢のママが引揚者だろうが、監督夫人がマスコミに袋だたきにされようが、Y・Yの詩が秋の海の歌しか認められなかろうが、そして桜子が一回りも年下の亭主と居ようが、みんな一所懸命生きて来たのだ。敗戦という極限の社会から立ち上がって来たのだ。60代、70代、80代の女性たちよ、頑張れ、頑張れ、春介はそう呟く。
女が一度、決意すれば時には男をはるかに凌駕する行動に走ることができる。例えば、世界中にあふれる娼婦をみれば、男たちは納得せざるをえない。肉体を売るという淵をこえてしまえば、何であれためらうことなく生きる術をこうじることが可能となる。信じられないような利己主義や、男の詐欺師など足もとにも及ばない悪業もあえて辞すことはない。悪女伝説がこうして成立してゆく。女たちに比して体力が勝る男たちが世界中で男専横の社会を構築しているとき、女たちは女達が生きてゆくために男たちの出来得ない手練手管をそれこそ命をかけて模索してきたのだ。男たちの猛烈な弾圧や同性たちの激しい批判の中で勇猛に生き抜いてきたのだ。嫌な女、二目と見たくない女と難じられる女たちの中にこそ、自らのためならそれこそ何であれ男に尽くす最高の女が生まれてくるのだ。悪女こそが、ある意味で男にとっては最高のパートナーでありうる。が、えてして、男たちは命をかけてつくしてくれる女が実は彼女自身のためで男たちのためにそれをしているのではないということに気づかず調子に乗ることとなり、結局は、幣履のごとく捨て去られることとなる。今、日本でも問題化しつつある熟年離婚などは、程度の差こそあれ、女性というものへの愚かな見定めから発しているのに違いない。春介の人生哲学の第一条は女性を敬い、女性を恐れ、女性には結局男はかなわないという信条である。            
 

(つづく)