安全地帯(245)
−信濃 太郎−
大正時代の俳句について(大正精神史・俳句編2)
荻原井泉水が碧門機関誌「層雲」を創刊したのは明治44年4月である。大須賀乙字も加わったが1年後に反新傾向の立場を鮮明にして脱退する。井泉水は大正初年季題無用論を唱え、碧梧桐とは異なった道を歩む。碧梧桐も従来の写実主義に限界を感じて新傾向の作品を目指す。これに一碧楼がまったく自由形式の叙情的表現を試みて新傾向に加わる。ここで新傾向の俳句を論ずるつもりはない。井泉水に師事、大正2年から「層雲」に出句した種田山頭火の俳句から時代の息吹を感じたい。当時32歳の山頭火は大正2年第2巻12号(3月号)から大正15年第16巻7号(11月号)までの29冊に俳句・「誌友通信」随筆などを出している。大正3年10月には山口県を訪れた井泉水と会う。
今日も事なし凩に酒量るのみ
朝焼おそき旦薔薇散りそめぬ
物おもふそばに子はおとなしく砂掘れり(大正4年「層雲」に発表)
大正5年「層雲」の選者になる。5月に妻子ともども熊本に移る。古本屋「雅楽多」を営む。
ささやかな店ひらきぬ桐青し
父子ふたり水をながめつ今日も暮ゆく
いさかへる夫婦に蜘蛛さがりけり
大正7年6月弟二郎縊死す。12月祖母ツル死去。山頭火はお金を無心した渡辺さとるにあてた手紙の中でこういっている。「句はその人の生活なり人格なりを離れて存在しません。その人の生活乃至人格が背景となってその人の句が光ります。私もあなた方とともによりよき生活に志しつつ句作の歩歩をすすめたいとおもいます」(大正6年3月22日)。
水底いちにち光るものありてくれけり(大正6年3月10日・防府)
黒き手が黒き手が木の実つかみたり(大正6年「層雲」に発表)
月が昇れりわがまへの花ひらくべし (同じ)
酔ひざめのこころに触れて散る葉なり
大正8年上京する。大正9年11月妻咲野と戸籍上の離婚を余儀なくされる。
雪ふる中をかへりきて妻へ手紙かく
大正12年9月関東大地震に遭遇、避難中憲兵に捕まり、巣鴨刑務所に入れられる。嫌疑はれて熊本に帰る。大正13年12月熊本で市内電車に立ちはだかり急停車させ、危うく助けられる。禅門に入る。大正14年2月報恩寺で出家する。3月味取観音堂の堂守となる。
松はみな枝垂れて南無観世音
松風に明け暮れの鐘撞いて
けふも托鉢ここもかしこも花ざかり
けふもよう働いて野の昼餉
大正15年から昭和へかけて放浪の旅が始まる。
分け入っても分け入っても青い山
鴉啼いて私も一人(放哉居士に和す)
しとどに濡れてこれはみちしるべの石
炎天をいただいて乞い歩く
木の葉散り来る歩きつめる
これらの句はいずれも大正15年の「層雲」に発表された。行乞流転の山頭火の境涯から生まれたもの。私は「分け入っても…」の句が好きである。渡辺利夫(種田山頭火の死生」・文春新書の著者)は自分にまとわりついて離れない山の緑を「「自分の過去への執着」とみた。私は人生修業の終わりなき旅を思った。いずれにしても「放哉が終わって山頭火が始まる」と層雲の誌友を驚かせた。なお山頭火は昭和15年10月11日59歳で死去する。
山頭火は師、井泉水の「俳句は短詩である」の忠実なる実践者であった。山頭火の作品と生涯を英語で海外に紹介したジョン・スチーブンスさんはその本が大反響を呼んでことで「私は彼の俳句が“東西を超越している”ことを確信するにいたった。彼の詩は簡明で、直裁で、無用な繰り返しがないため翻訳されても句の持ち味や意味合いを失うことがない」と称賛する。
昭和5年9月9日の日記の書き出しは「私はまた旅に出た。愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ」これではあまりにもさびしすぎるではないか。それでも「曼珠沙華咲いてそこが私のねるところ」の句を見ればうらやましくもなる。書家の金子鴎亭は山頭火の書をこう評した。
「種田山頭火の書は人の書風のまね事ではない。彼の人生行路がそのまま書の中に生きているから人を打つのである。誰ものができない自由律俳句の中に生きた山頭火の鋼鉄のような意志が、その書の中に燦として輝いているから尊ばれるのである」。
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