〔連載小説〕
VIVA 70歳!
さいとう
きたみ著
第三章 (つづき)
冬彦:その3
読書に倦んだ時など漠然と自分の人生を振り返っていることに気がつく。一般的に言えば順調な人生を送ってきたといえるのだろう。山の手の中産階級の長男として生まれ、幼い頃は神童といわれていた。4才の時にはカタカナ、ひらがなを読むことができ、母が大切に保存していたコピーにあるように、天才児として当時の新聞に載ったこともある。十で神童、二十(ハタチ)で才子、三十過ぎればただの人、というからかわれ方をされていたのをうすうすと覚えている。中学生の時は図画のコンクールで日本一になったことがあったし、作文コンクールでもたびたび入賞していた。高校受験に際しては冬彦の年度とその前の年度だけが、何故か全国共通の入試テストだった。一次試験、二次試験とあり、400点満点の一次では395点、1500満点の二次では985点をとり全国で多分一位の成績だったと思う。志望校の日比谷高校に問題なくパスし、父が反対するだろうからと母が密かに受験させた慶応高校もパスしていた。大企業の平役員で引退した父の口癖は、東大を出て官吏になれというものだった。父も東大ではあるが経済学部の出身で官吏にはならず民間企業に行ったことをどこか悔いる点があったのかもしれない。数才年下の官吏経験者が突然
自分の上司となったことを何度か語っていたことがある。高校時代は夏男、春介という生涯の友人にも恵まれ受験勉強に役立つとは思えない本も随分読んだりしたので最優秀とはいえなかったが、兎に角ストレートで東大に入り、父の薦めもあって法学部を選び官吏になった。が、70才になった今、他から見てもいかにも活き活きとしている夏男や春介に比し自らの生活がより恵まれているとは思えない。退官後も年金と民間の老人保険とで50万円ちかい月収があり、本年までは顧問会社から月に30万円ちかい手当てをもらっていたので老夫婦二人つつましく暮らせば物価の高い東京でも、すでに月賦を払い終わった自宅ということもあり、少額ではあるが月々貯金もできる。ほとんど手をつけなかった退職金も銀行に温存されている。株を含めて一切の投資、投機はしないという性格だったので大金を手にしたこともないが、持分を減らしたことも無い。4人の孫たちに時折、手土産を渡す程度の余裕もあった。妻の笹子が時折、娘たちに多少の小遣いをわたしているらしいことは感づいていたが、特に口を出したことも無い。心配ごとといえば長女の息子がいわゆる自閉症であることだが、近年の医学の進歩に期待し、この孫の将来が悲惨なものにならぬことを祈りつづけている。健康の方も水泳を続けていることもあってか、全体に老人としての衰えはやむを得ないとして特に問題はない。
上司の推薦で冬彦が勤める省のOBの娘の笹子と見合いをし結婚をしたのは30才の時だった。女性と全く縁がなかったわけではないが、結婚を意識した女性はいなかった。結婚を機に一切の深い女性関係を無くすことを心に決めたので、この何十年、妻を裏切ったことはない。結婚した時、妻が処女であったと確信できたことで、この決心がより強いものとなっている。処女などにこだわることは今や奇人変人の類だと春介にひやかされるが、自分の心の奥には処女を尊重する気持ちがあることは否定できない。妻が自分を裏切ることがあればどんなに自分が傷つくかと想像するだけで恐ろしい。その同じつらさを妻に味あわせることだけはしたくないと、それが浮気をしない根本の理由である。区民プールでいつものように泳いでいる時、ふと気がついたことがある。自分の人生において最も素晴らしい事件は東大に入った日なのではないか、と。以来さまざまなことがあった。皆が羨む名誉な場面もあったし、最初に子供を持ったときも感激だった。むろん、結婚をした相手が処女だと分かったときも嬉しかった。が、心から天下に向かって万歳と叫べる日は入試合格の日だけだったような気がする。そう思った時、冬彦は初めて自分の人生が何であったかを真剣に考えはじめるのだった。大学入試などという、自分自身の意志は後についてくる、親や教師やいわば世間から強要され続けてきたものの成果が自分の人生にとって最高の日であったということは何かしら情けないものに感じる。しかし次女の亭主が東大出と知って私大出の長女の亭主に比し何かより信頼できるような気がしたことも事実だし、頭の中では東大が唯一最高の大学などとは思っていないのに処女信仰と同じようにどこかに東大信仰があるのかもしれない。酒を飲んでいた時、ふと気づいたのは宮沢内閣が終り細川内閣が出来て以来の全ての首相が私大出であるという事実である。細川(上智)、羽田(成城)、村山(明治)、橋本(慶応)、小淵(早稲田)、森(早稲田)、小泉(慶応)、安部(成蹊)、偶然とはいえ何かがあるように思える。役人時代、東大出にあらざれば人にあらずとさえ思える環境の中にいるうちに、どこか東大出が天下をとるのは当然と考えていた節があったのだろう。そういえば官僚というものの世界でいわば人臣を極めたのが当時では大蔵省の事務次官であったが、彼らの多くが退官後、政治にうって出たが大成したとは思えない。勿論、次官経験者はすでにしてそう若くはないのだから、当選回数が大臣資格者としてものを言う我国の状況の中で不利であったことは否めないが、そればかりの理由ではない面もあるように思う。自分の人生の中で東大合格が最高、最良の日であったとするなら一体自分の人生は東大の意義や価値が低下した時、どのように自分自身を納得させるつもりななのかと自らを疑わざるを得ない。
東大生は教養がないというタイトルを文芸春秋か何かで目にしたことがるが、今、自分自身の教養に対して恥じ入ることばかりだと気づいていることも事実だ。この件については一度ゆっくり考えてみる必要がある。そうでなければ自分の生きてきたことに十分なる説明がつけがたい、そう思うのだった。
冬彦の若い頃、恒例の長者番付けが発表された。それぞれの部門のトップが田中角栄、松下幸之助、松本清張、王貞治、美空ひばり、などが全て大学を卒えてない人々だったことがある。東大を出て間もない頃であったためか、何か釈然としないものを感じたことも思い出す。
(つづく)
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