〔連載小説〕
VIVA 70歳!
さいとう
きたみ著
第五章 (つづき)
冬彦:その5
冬彦は自分たちの世代がどういう指導者たちに導かれて来たかを時折考える。戦後、全ての組織、団体、企業の価値観が激変した。多くの戦死者に加え、公職追放、財閥解体なども追い風となりそれまで年功序列形式であった日本のヒエラルキーに突如若手の指導者が出現したのだ。当然経験不足でもあり能力に欠けるものも多かったであろうから、失敗の連続も多々あったはずだ。しかし、運、不運も含めて勿論成功者もいた。ホンダやソニーなどが出現する可能性もあったのだ。当然のことながらあらゆる組織の宿命として一度成功したものは次にその維持が欠くべからざる要素となり、そのエキスパートが要求される。冬彦の時代はそういう守りの指導者たちが大多数であったように思う。伝説化した第一期指導者たちの神格化によって、それら第二期指導者たちは生真面目で努力家ではあったが面白みに欠けるのは当然であった。貧困の時代の実体験もあることから質素で小心でもあった。当然それらの指導者のもとで部下たちも謹厳実直さが求められた。日本型真面目会社人間たちの素地が形成されたともいえる。が、中には戦後生まれた第一期指導者に似た型破りの経営者たちもいたが、いつの間にか少しずつ消え去っていく運命にあったようだ。冬彦が出会い、わずかではあれ共に仕事をして来た人々の中にも毀誉褒貶は別として思い出深い人たちがいる。西武の堤兄弟、ミサワホームの三澤社長、パイオニアの松本社長、ヤマハの川上社長、サントリーの佐治社長、それぞれ個性豊かで時には破天荒のところがあった。第一期経営者の中では、北炭という大荷物をかかえいつの間にか観光会社に転進させた政商とも言われた萩原吉太郎氏も印象的な人だった。が、70才を迎えた今、周囲を見回してみると優等生は多いがとりわけ印象に残る指導者たちを見つけることができない。日本という土壌がそういう個性ある指導者たちを育たせない何ものかが存在しているような気がしてならない。
サントリーの佐治氏が自ら建てたサントリー・ホールでの恒例の年末の第九のコーラスで歌っていたり、パイオニアの松本氏が世田谷の豪邸の庭で蛍の繁殖に夢中になったりしていたことが懐かしく思い出される。そうは言っても冬彦自身、自分の生き方をみれば典型的な守り型の真面目人間だと思う。夏男や春介の生き方から比べれば実につまらない人生だとも思う。が、仮に自分が今の生き方ではない、いうところの奔放な人生を送っていたら、きっと大きく躓き大いに不幸な目にあっていただろうとも思う。これでよかったのかも知れない。面白おかしい人生はそれなりに大きなリスクを伴うものだということも十分心得ている。が、死後、もう一度次なる人生があるのだとするならば、どういう人生をおくりたいのか、そう自分に問うてみると、そればかりは何ともいえぬ。夏男が「旅は出る前が楽しい」と言っていたが、次の人生への旅を楽しく夢想し続けようとも思う。青春時代、自らの将来を夢みたように、70才を過ぎたら次の人生を夢みるのに最も近い立場があり特権があるのだから。冬彦も夏男のように異国に住んだり、春介のように海外を飛び歩く人生を考えなかった訳はない。しかし、70才になった今日、誰が何と言おうが日本に住み続けようとますます強く思う。わずかではあるが、海外に住んだ体験からより強くそう思う。日本人が日本に住むのは、ごく普通で自然なことだ。日本人は表現が下手だと言う。それは認めよう。表現が下手だからこそ、目が口ほどにものを言うのだ。手つき、足つきでも意志を伝えることが出来るし、相手の感情を知ることが出来る。妻に毎朝愛していると言葉で伝えなくても、日本の夫婦は十分に仲良く暮らせる。年齢をとればとるほど、何が何して何とやらのような他人には理解できない相互交流が可能となる。日本人がもつさまざまな欠点や短所が日本では逆に美点、長所ともなりうる。確かにそれは非国際的なことかも知れないが、自分たちと異なる文化や習慣が存在していることをやみくもに否定するのでなければ、それはそれで良いのではないか。世界中どこに住んでも良いと思っている人たちを、非難さえしなければ自分が最も居心持ち良いと思う地に住むべきだ、そう思う。第一、単純な話、健康を害して医者に看てもらい、例えば痛みを伝える時、胸がキューンとか、腹がシクシクとか、頭がガンガンとか英語で何と言うのだ。見当もつかない。子供たちや孫たちは勿論、友人、知己たちと遠く離れた場所で暮らすということは、ある意味で自分が過ごして来た人生の一部を否定することにつながる。生きている人たちだけではない、自分の親たちを含めて先祖の墓もある。自分の墓に誰も来てくれないというのも寂しい。勿論、夏男や春介のいう日本、特に東京の住みにくさについては十分認識している。 愛国心とか国民の義務とか難しいことを言う前に、長所も欠点も含めて日本人が日本で死ぬことがやはり一番自然なことだと思う。冬彦は日本に住み続ける決心をする前に東京に住み続けることを決めていた。いや、何となくそう思い込んでいた。その理由の一つに馴染みの店というものがある。例えば冬彦にももう何十年も通っている寿司屋があるその店が何万軒、何十万軒あるかもしれない寿司屋の中で最も美味な寿司を出しているなどとは思えない。事実、友人や知り合い、あるいは仕事の関係者から、とにかく最高の寿司屋にご案内しましょうと言われ、随分いろいろな店を訪れた。旨いと思ったこともあるし店の格のわりに安いと思ったこともあるが、その後そういう店に一人でまた出かけようとはしない。寿司屋の客が何を持って自分の馴染みの店とするのか、味や値段、交通の便など基本てきな条件は一応あるとして、それ以外は実に主観的なものだろう。親父の態度が好ましい、ちょっと色っぽいお内儀がいる、手洗いが清潔だ、いつもみずみずしい花が活けてある、などなど、人さまざまである。しかし、どうも周囲を見ていると寿司屋や蕎麦屋、鰻屋などは馴染みの店に行きたがる人が多い。東京に住む、日本に住むということは、この街、この国が馴染みの街、馴染みの国だからに相違ない。メキシコに住む夏男からメキシコの居心地のよさについては十分聞いている。理屈の上ではよく理解できる。しかし、それはメキシコが夏男にとっては馴染みの国であって、冬彦にとっては夏男に引っ張られて行った夏男の馴染みの店と同様、冬彦にとっては馴染み国には容易になれない。春介のように年中旅ばかりしている男にとってはむしろ馴染みの店なるものがあることが、かえって煩わしいのだろう。それもまた、わかるような気がする。難しいことは考えぬようにして、冬彦は日本という国がどのように欠点、短所にあふれていようが馴染みの国だと思うことにしている。
冬彦の世代は60年安保から70年安保にかけて青春時代をすごした。若者たちの多くは政治的な戦いに参加したり、巻き込まれたり、あるいは逃避したり、無視したりしていた。若者たちだけではなかったと思う。大学に入り、ある講義でその教授はこう言い放った。
「君たちの卒業する頃には日本において革命が成立している。間違いなく社会主義国となっている。君たちの中には大企業に就職することを望んで日々勉強に精出している者もいると思うが、それは全くの見当違いだ。役人をめざしている者も同様だ。社会主義のシステムの中でどう生きてゆくか、それを考えることが君たちの義務であり、正しい選択である。」
冬彦は動揺せざるを得なかった。必ずしも熟慮を経た結果ではないが、安保闘争に対し積極的な参加は避けてきていた。ノンポリとか日和見とか蔑まれてもそれを黙殺していた。日本に革命が成就した時、彼のような存在は反動として進歩主義者から石持て追われることになるのか。
その講義をした教授は決して軽々しい人ではなく、学者としても定評があり尊敬されている人であっただけに、一方的に彼の主張を否定することは出来なかった。マスコミも進歩主義者の論調で埋めつくされていた。いわゆる文化人たちも左翼的にあらざる人は低脳あつかいか国賊あつかいであった。特に反米的発言は当然のことと受け入れられていた。あの
楽観的な春介までが、アメリカの大学などに入っている俺などは、死刑だな、などと言っていた。今から思うと一体あれは何だったのだろうか。連日のごとくいわゆる左翼陣営では論争がおきている。社会党の右派と左派、そして共産党の各各派それぞれが対立し互いに罵り合っている。内ゲバさえ起きている。
右翼とか左翼とか言う前にこの国が社会主義国になったら、この内輪もめのようなことが延々と続行するのだろうか、その点もまことにうっとうしい気がした。一方、右翼的な発言をする連中も少数ながらいたが何か体育会系の幼稚さ丸出しのような理論にもならぬレヴェルで左翼の連中の方がまだましとさえ思えたものだ。冬彦は学ぶことに歓びをおぼえぬまま日々を過ごしていた。しかし70年安保闘争の後、台風一過の青空のように突然、社会主義者たちが消えてしまった。自分自身がまさに渦中にありながら、あの時代は一体何であったのか、未だに不可解なままだ。自分自身が何であったのかさえ、整理できていない。
そして学生運動の闘士たちも無表情に彼らが唾棄してきた社会のあちこちに吸収されていった。戦時中の神国日本にも救いがないと思うが、あの時代の一億総反米、容共時代もクレイジーであったとしか思えない。意識的に左翼的言動をする作家や評論家のことを、そういえば営業左翼などと呼ぶ言葉もあった。敗戦時の価値観の大転換とともにこの時代の社会情勢がどんなに傍観者などと非難されようが冬彦の中に世間を冷えた目で見る習性がより強く植えつけられたことは間違いない。それは冬彦だけでなく夏男も春介も似たり寄ったりであったのではないか。三人でこの時代を回想するとき意見が一致するのは、カーキ色の車で軍歌をがなりたてる右翼も、当時流行った歌声喫茶やうた声バーでロシア民謡などを感動にうちふるえて歌っていた運動家たちも共にくだらなく感じたという点であった。何といわれようが三人はやはり当時都内のほうぼうにあった名曲喫茶で静かにクラシックを聴くことの方が性にあっていたのだ。
三人がこの短いようで長かった一億総社会主義時代を語るとき、最終的には分からないという結論になるのだが、20歳までにマルキストにならぬのは馬鹿、30歳になってもマルキストであるのはもっと馬鹿、という大宅壮一だったかの言のように、きっと若者たちの流行性の病だったのかもしれない、などと語りあう。何であれ思想というやや知的なキーワードのもと、肉体をそれにつなげる行為というものはインテリ、あるいはインテリかぶれ、インテリ候補生、インテリ憧れ生たちには希ってもないチャンスだったにちがいない。思想に身を挺するなどという高尚なことは一生はおろか数世代に一回あるかないかのエキサイティングなことなのだ。そうして若者たちは熱病にかかったようにこのゲームに競って参加したのであろう。
メキシコに移住した夏男が冬彦にたびたび語るのは大方の日本人のメキシコに対する不思議な反応についてだ。メキシコに移住した夏男が冬彦にたびたび語るのは、おおむねの日本人のメキシコにたいする不思議な反応についてだ。
「まず、メキシコが南米だと思っている人が多い。沖縄とほぼ同緯度にあるのだから、日本とメキシコはほとんど同じ位置にある。」
夏男は語り続ける。
「アメリカの隣りが南米だなんてヘンだとは思わないのかね。事実世界的にはアメリカとカナダとメキシコは北米であって中米とさえ呼ばれていない。」
冬彦も自分自身がアメリカに住むまで何となくメキシコがアメリカの隣国だという認識が薄かったことを思い出す。
「次に世界地図の影響もある。」
いわれてみれば当然のことだ。一般の世界地図は球体である地球を二次元で表すため、北と南が極端に広大になってしまう。北極や南極が実際よりも広大に見え、ロシアやオーストラリアもそれに順ずる。従って中央部分は実際よりも小さくみえる。広く見えるアラスカやカナダにつづいて事実広大なアメリカがつづき、その下にあるメキシコが実際よりも小さく見えるのだというと、大方の日本人はまさかという顔をする。夏男はそうも言う。
「ソンブレロを被って砂漠のサボテンの下でロバと一緒にギターをかかえて居眠りをしている。これが日本人一般のメキシコのイメージなんだな。富士山をバックに桜の木の下でゲイシャが笑っている日本人のイメージと相似たりだ。」
夏男は続ける。
「メキシコにも地下鉄はあるしノーベル賞受賞者も宇宙飛行士もいるというと、おおくの日本人は自分の持っていたイメージが壊れるためか嫌な顔をする。音楽家でもある僕の女房などは、メキシコにもオーケストラがあるのかというたび重なる日本人の質問にもう答える気力さえなくしている。日本人には三大テノールのプラシド・ドミンゴがメキシコ育ちで、メキシコの音楽学校を出ていてメキシコ人と結婚しているなどということは許しがたいものらしい。まあしかしこれも目くじらを立てることでもなくて、俺だってブルガリアやルーマニアがどこにあるのかも正確に知らないのだから、つまりわれわれ日本人は自分の知識が不足していることは印象でことを断じてしまう欠点を持っている。そういうことを言いたいんだ。」
と、夏男は言う。そういう国民的傾向が神国日本や似非社会主義や経済大国の神話を作り上げてきた可能性は十分にある。
冬彦から見ると春介の生活は自分とは正反対なものであることを十分承知していても驚ろかされることが多い。役人というひとつ、ひとつをきちんと仕上げて行かねばならぬ仕事からみると実に危うげに見えることもある。高校の同級生が芥川賞をとった。高校時代、特に作家になる気配は感じなかった男だが、当時はめずらしい長髪でピアノも弾けたように記憶している。彼の受賞作は高校時代の体験をもとにしたものだった。その後、同級生の中からまた一人芥川賞作家が生まれた。彼は生真面目な男で学者になると思われていて、事実ドイツ文学か何かを専攻していた。同級生中、一人なら偶然なものとして無視できるが、二人ともなると少々気になる。春介たちと酒場で俺達も作家になれるかなあ、などと笑いあっていると、突然春介が俺も文学賞をとると言い出したものだ。
冗談かと思っていたら本当に芥川賞ではないが、かなり重要視されている新人賞に応募し、次席に入ってしまった。審査員の評によると文章が実に上手いというものであった。後日、春介が告白したのは実はこの作品は芥川龍之介の「トロッコ」の文体模写なのだという。「トロッコ」と全く同じ文体で主語や述語を変えただけなのだと言う。勿論、春介にとっては文体模写というものが審査員達に通用するか否かが興味の対象であって作家になどなる気は毛頭ない。文学は、読むほうが書くよりもずっとらくだというのが彼の受賞後の感想であった。冬彦が、春介を危ぶむのはこういう一種の思い付きをさらっと本当に実行してしまう行動である。文体模写だって詐欺同然の行為だ。好漢自重せよと願うばかりだ。人々が、誰しも知っている名曲を集めたオペラの上演だの、ラヴ・シーンだけを集めて編集した映画だの泰西名画の贋作だけを集めた展覧会など春介は評判になったイベントを次々に世に送り出しているが、どうも本人一人楽しんでいるだけでなく、何か世の中の常識や権威をことごとくヒックリ返してみたいのではないかとさえ、疑う。お遊びというより少々危険な思想が透けて見え隠れする。勿論そういうことが出来る春介の才気や実行力を羨む気持ちも一方にはある。
日本と外国との間にはいろいろと異なる文化や習慣があるが、冬彦が強く意識させられるものに「舞踏」がある。日本伝統の「舞踏」のほとんどが地に足をつけたものだ。能がすり足で演じられるのを代表的なものとして地唄舞や神楽などどれをとってもしっかりと地に足がついている。
盆踊りでさえ、その例外ではない。地があってこそ人が踊れるのだという強い主張があるように感じる。農耕民族としての当然の文化であったのかとも思う。そこへ行くと外国の、わけても西洋の踊りは常に宙に舞うことを意図している。バレエなどは高く長く空中にいることが求められている。トウシューズで踊るバレリーナたちもなるべく地面から遠ざかることが主目的にみえる。この地への張り付き方と地から宙へ舞い上がろうという文化や伝統はそれぞれの国民性に強く根付いているのではないか。
たとえば日本での不動産に対する思いは、時には執念とさえ思える。土地兌換制度なのかとさえ言える。日本の銀行は最近でこそ変化が出てきたものの基本的に不動産が融資の担保として最優先されてきていた。本家とか分家とかの概念、長男が家長として取得できる財産も不動産が中心であった。そういう資産価値としての土地を越えて日本人にとっては大地は宗教的な意味さえあるのではないか。方位学を含めて土地と人間の関係は冬彦の知る限り他国の人々より濃密なものがあるように思える。最近、ビート・タケシの映画「座頭市」を見たが、ぞうりでタップダンスをするシーンがあった。田植えという典型的な大地に足を突っ込んだ状況の中でのタップ・ダンスは全く意表をついた。米作という日本人の生活にとてってもっとも重要にして厳粛な行為はまさに日本人と大地とのゆるぎない連帯のシンボルである。そこにタップダンスという大地を無視し、人間が軽やかに跳躍する行為を持ってきたということに驚かされたものだ。大地に拘束された日本民族の宿命からの脱却を象徴しているのだとしたらビート・タケシはすでに哲学者の域に達しているのかも知れない。大地と人の関係で言えば建築物の彼我の差も大きい。建物が石造であるか木造であるかの相違は単に材質の差だけとは言えず人生や生活そのものに密接な係わり合いがあると思える。百年たっても二百年たってもそのままの姿で残るであろう建物と五十年後には間違いなく残っていない建物の中で暮らす人々には異なった人生観が生じる筈だ。今や都会の日本人たちはその中間のような存在にある。ウサギ小屋と外国人にさげすまれたような自宅から、近代的な高層ビルの務め先に通う。名ばかりとは言え、マンションと称せられるコンクリート建築も増えてきている。従来、日本および日本人にとって、高い建物は無縁であった。ギリシャの人々が高い柱にこだわり、その後のヨーロッパのひとびとが高い塔の建築に血眼になっているとき、日本ではおおきな屋根を代表とする横への広がりを目標としていた。中国から入ってきた仏教建築でやっと五重塔などが実現したが、肝心の柱は外壁で見えないようにし、塔にも各階に屋根をつくり高さをむしろ否定する方式をとってきている。東大寺の大仏殿のような世界でも類を見ないような木造大建築が出来るが、これとても大屋根が垂れ下がり、大地との安定した関係を作り出す。明治以降でも浅草の12階や大阪の新世界の塔が名物になる程度で戦後も東京タワーがエッフェル塔を抜く高さだというのが話題になるほどで高さに対する憧れは欧米に比べて決して強くないと思われる。こういう傾向も日本人の大地への愛着というものと無縁ではないように思える。
(つづく)
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