安全地帯(252)
−信濃 太郎−
シベリア出兵と国民生活(大正精神史 事件・戦争編5)
大正時代にシベリア出兵があった。大正7年8月から大正11年10月までの出来事である、4年2ヶ月の間、延べ10ヶ師団が交替に出征した。参加兵力は24万人、臨時軍事費9億円、戦死者5千人、負傷者2千600人といわれている。「革命軍に捕われたチェコ軍を救出する」という大義名分があったがこの際、北満へ勢力を扶植しておこうという下心もあった。これはシベリアに投入した連合国の兵力と比べてみるとよくわかる。アメリカ7950人、イギリス1500人、カナダ4192人、イタリア1400人にすぎなかった。伊藤正徳は「ついに一物をえずして撤兵したる悲しむべき大事件」と総括している(現代日本文明史第4巻・国防史・東洋経済新報社)。国民側から見ても無駄な血税が使われ、肉親が戦死する悲劇に見舞われている。しかもお米の値上がりを招き「米騒動」のきっかけの一つともなった。
日本が出兵宣言したのは大正7年8月2日である。富山で米騒動が起きたのは翌日の8月3日の朝である。この両者に深いつながりを指摘するのは中野正剛である。中野正剛は経済構造の矛盾を見るからである。日清、日露両戦争を経て先進諸国の一角に取りついた日本は世界大戦で急速な経済成長を遂げたもののそこに二重構造が現出したとする。
表を見てほしい。
年代 |
物価 |
賃金 |
実質賃金 |
米の生産高 |
米価(1石) |
大正3年 |
100 |
100 |
100 |
5700万6541石 |
15円74銭 |
大正4年 |
103 |
100 |
|
5592万4590石 |
12円84銭 |
大正5年 |
144 |
127 |
|
5844万2386石 |
13円96銭 |
大正6年 |
179 |
157 |
|
5456万8067石 |
21円50銭 |
大正7年 |
230 |
|
68 |
5469万9087石 |
41円 6銭 |
物価は上がっているのに実質賃金は毎年減る一方で大正7年には68まで落ち込んでいる。労働者の生活は苦しくなるばかりであった。ストライキは大正3年の50件から毎年増えて7年には417件を数える。第2次産業と第3次産業の発展は人口の都市集中を促し米一人当たりの消費量を増大する結果をもたらしたものの米の生産は停滞した。中農層(1町から3町)の没落と貧農層(1町以下)の増大という農村の困窮化を招いた。お米の値段が大正7年8月に41円6銭と他の物価指数並みに急騰したのはシベリア出兵による米仲買における買い占めと投機によっておこされた。中野正剛は「日本の産業構造の変化によっておこされた断層の一面である」と解説する(中野正剛の「シベリア出兵と米騒動」の論文より)。
出兵宣言よりも早く大正7年1月12日海軍の軍艦「石見」は第五戦隊司令長官加藤寛冶少将(海兵16期・大将)のもと浦潮に入港している。英艦「サフォーク」は2日遅れて入港する。浦潮に堆積された各種資材が敵側に入るのを防ぐためであった。米国は派遣を拒否した。このとき加藤友三郎海相(海兵7期・大将.のち首相)が加藤少将に与えた訓示が面白い。「君の知らるる通り露西亜の状況は猫の目の如きもので、どう変わるや殆ど先の見通しがつかない。したがって君に与える訓令も書きようがないので、別に訓令書は与えないからどうかそのまま往ってもらいたい。君も突然のことで困るだろうが、かく申す私も同じだ。いずれ赴任してから余裕があったら請訓せよ。しからざれば君の『ベスト』と信ずるところを遣り給へ」
それから91年後ソマリア沖の海賊退治に日本の自衛艦2隻を出動させるにあたり日本政府が取った態度は誠に情けない。千変万化変化する海賊との戦いに武器使用について規制し、日本の船舶のみを護衛せよと命令し海上保安庁の職員を乗船させる対策をとる。加藤海相のように現場指揮官にすべてを任せる方針を取れなかったものか。優秀なリーダーの不足。危機管理能力の無知など度し難いものを感じざるを得ない。
陸軍は初めて前線なき戦い(パルチザン)に対面して苦しんだ。犠牲者もでた。第12師団が担当したアムール州方面では少佐指揮する歩兵連隊の一大隊全員戦死、この大隊を増援のために現地に向かった野砲連隊隊の大尉指揮する一箇中隊と歩兵連隊の一個小隊が敵と遭遇106名が戦死する。また敵情偵察の少尉が指揮する一小隊が全滅した。これは小規模の部隊が僻地に分散配置されたことや深く敵を追い求めたことが原因とされている。ザバイカル州を担当した第3師団の場合。師団長が「大勢に影響なきものは必ずしも一々之を処置するを要せず、特に僻遠の地に部隊を派遣しまた風説の身に基づき派兵するごとき・・・日、ロ両国の感情を害するの虞なしとせず・・・」と各部隊に自重を求めていた。このため被害はきわめて軽微であった。
毎日新聞の報道を見ると、革命騒動でペトログラードからウラジオストクに難を逃れていた布施勝治特派員は、日本の軍部や外務省が革命ロシアの国内情勢も理解せずシベリア出兵を画策し、節度をわきまえない軍事をとることは、いたずらにロシアを刺激し、決して日本のためではないと極力シベリア出兵反対の通信を送った。論説もシベリア出兵には慎重論を唱えたという。伊藤正徳が言うように「シベリア出兵が一物も得ず」というなら無名の師は出すべきでないという教訓を残したことになる。