手元に山中峯太郎著「敵中横断3百里」(少年倶楽部文庫・講談社刊)がある。発行は昭和50年10月20日第2刷発行となっている。少年時代に「少年倶楽部」でわくわくしながら読んだ冒険ものである。昭和50年10月といえば私が毎日新聞の論説委員時代である。論説委員時代は一番時間があってよく本が読め、勉強ができた。本屋でその本を見つけ懐かしく思いつい手が出たのであろう。値段は320円。本のカバーには「建川少尉(中尉の間違い)がわずか5名の部下を率いて群がる敵の陣営深く潜入、攻撃態勢を探る決死の冒険行!これぞ日露戦争中での特筆すべき戦場事実物語である」とある。
建川美次中尉は陸士13期、陸大21期の恩賜である。のちに中将。駐ソ連大使も務める。時は明治38年1月。ロシアの大軍と沙河対陣中である。総司令部は敵が奉天で決戦を企図するか、鉄嶺まで退いて日本軍を迎え撃つかその状況判断のためにロシア軍の背後の様子を捜索する必要があった。騎兵第9連隊、平佐眷弼中佐からの命令は次のようであった。
中尉は下士以下5名の者を、中隊から選び出し、明後1月9日早朝に出発せよ。遠く敵軍の後へ進み、次の任務を遂行すべし。
1、 敵軍の動きつつある場所と兵力を捜索せよ
2、 敵軍の防御工事のあり様を詳細に探知せよ
3、 敵軍の鉄道運送の様子、及び、列車に乗せている物を調査せよ
4、 なしうればはるかに遠く撫順方面の敵軍と土地の様子を捜索せよ
5、 なしうれば敵の鉄道と電信線を破壊し、倉庫を焼きすてよ
5人の部下は騎兵軍曹、豊吉新三郎、騎兵上等兵、野田新作、同、神田卯治郎、同、大竹久、騎兵1等卒、沼田与吉。潜行捜索期間23日、総行程1200キロであった。「敵中横断3百里」には血沸き、肉踊る冒険談が描かれている。
このとき騎兵14連隊の山内保次少尉(陸士14期)の斥候が同じ目的で出されている。山内斥侯は伍長、清水織右衛門、上等兵、館沢豊、1等卒、神崎文三、満人通訳1名の陣容で1月4日、枕旦堡出発、18日間、総行程1000キロであった。建川、山内両斥侯とも鉄嶺付近の敵情を詳らかにして、敵は鉄嶺まで後退することはありえないのを確かめて報告したと記録されている。
著者の山中峯太郎は本来、陸士18期生であるが病気のため陸士19期生となる。大阪幼年学校出身で中央幼年の恩賜。明治43年12月、陸大25期で入校、明治45年陸大を退学する。その理由は分かっていない。支那にわたり中国革命に参加する。中国革命と関係あったのかもしれない。このころ、内緒で朝日新聞通信員として山中未成の名前で中国の内紛の記事を送っている。これがもとで大正3年に依願免職になる。以後作家活動をする。山中峯太郎は昭和41年4月28日、享年81歳で死去する。戦後訪ねて行った陸士61期生の後輩に「国は一つなり」(至文堂刊・昭和21年6月)を与えた。その本の冒頭に「イエスが郷里のナザレからヨルダン川に来て、ヨハネによる洗礼を受け、川の水から上がった時に『天たちまち、これがためにひらけ、神の霊の鳩の如く降りて、その上に来るを見る。また天より声ありて、こは我が心にかなふ我が愛子なりと言へり』」(取税人マタイの記録・3章13−17)という聖書の1節が書かれてあったという。(雑誌「偕行」6月号・成瀬隼人「山中峯太郎の生涯」より)。成瀬さんは「私は迷える人間の宗教的真理を図らずも教えられた思いがした」と感想を記す。私は聖書を読むようにしている。何といってもこちらは迷える羊である。聖書をひもとくのは死ねば仏となり神となるが、安らかに死にたいと思うからである。神に「我が心にかなふ我が愛子なり」といわれるにはまだほど遠い小さな存在である。
(柳 路夫) |