〔連載小説〕
VIVA 70歳!
さいとう
きたみ著
第一章
冬彦:その1
冬彦は70才になった。生まれた時から絶えず年齢を重ね続けてきたのだから、70才になったからといって、突然それがやって来たものでもなく、69才と70才の間に劇的な変化があったわけでもない。しかし、ふりかえってみると20才に達した時と50才を迎えた時に或る種の感慨があったことを除けば、ごく淡々と年齢を重ねてきたようにも思う。そして70才。これは今までにない独特な感情が何かしみだしてくるように冬彦の全身を満たす。70才については十代の頃に知った一篇の詩が非常に印象的で、以来、70才になるということを一つの明確な区切りとして予感していたようにも思う。それは高校生の時、思いつきで参加した英詩研究会というクラブでの体験であった。多分、ヴォランタリーで来てくれていたのであろう英文学専攻の女性講師がテキストとして採用したのがアイルランドの詩人W・B・イエイツの詩だった。
もうあらかたは忘れ去っているが、“A most astounishing Seventy years I lived”
というところだけは覚えている。この大詩人が70才になったことを嘆き悲しんでいる様が十代の冬彦には当然ながら、すんなりと理解できはしなかったが、自分が70才になるまでこのことを記憶していたのは何か気になることがこの詩にあったのだろう。高校時代といえば今も生存していることが確認できる同級生たちが沢山居る。
それを想うと、この70才になったということを個人的な事件のように考えることから開放される。わけてもこの50余年親しく交流しつづけてきた夏男と春介のことを考えると笑みさえうかんでくる。冬彦に加え夏と春の名がつく三人を、秋が居ないことから友人たちは秋無しトリオと呼んでいた。三人がいつも群れるように行動を共にしていたことを多少揶揄した“飽きなしトリオ”の意もあったのかもしれない。
三人は昭和12年、1937年に生まれた。日本はこの年から軍事国家へと急突入していく。
もの心がついた四~五才の時に太平洋戦争が始まり、国民学校に入学し軍国的教育の一端を経験しはじめて一年数ヶ月、突然、あの終戦を迎える。価値観の大転換、英米撃滅、神国日本の砂上楼閣が一夜にして崩れ去ったのである。後は戦後の混乱に米軍の進駐がつづく。
ヤミ屋、パンパン、戦災孤児、モク拾い、二部授業、復員兵などなど、今や死語になったものもふくめ社会には大変化がうねる。昨日まで軍帽をかぶり声高に一億玉砕を説いていた町の顔役が進駐軍の残飯を貰う列に並ぶことになる。盲信とも虚勢ともとれる彼らの言動は必ずしも彼ら自身の自主意識からだけではなく、大本営の断末魔的デマやしめつけの中で他に選択肢のないやむにやまれぬものであったのかもしれない。とはいえ冬彦をふくむ幼い子らにとってその内実については知るよしもないが、この大人たちの急変は恐らく一生を左右するような何らかのショックを与えたであろうことは間違いない。事実、冬彦にもこの時点での自己喪失した大人たちの姿が永く記憶の中に止まり、しばしばその後の夢の中にもこの時のイメージが出現した。それは時には紙人形のようなぎこちない動きをする群像であったり、家畜のように地をうごめくカーキ色の集団であったりする。後に人が正に天と地ほども異なる言動をしても驚かぬようになったが、それはある種の人間不信であるのかもしれず、この戦後の体験が原点にあったのだと思う。また、何ごとであれ、それを絶対とか正義とか決めつける人々を信じなくなっているのもこの体験の後遺症であろう。
冬彦と同じ年に生まれた野呂邦彦という作家を知った。彼もこう言っている。
「私の精神形成はそのままわが国の戦後の荒廃と復興とに並行して行われたと思う。(中略)
すなわち7才の子供の心にも、敗戦はこういってよければ深い傷をしるしたといえる。」
戦争そのものも勿論
悲惨なものであるが、特に日本は敗れたのだ。悲惨さに加えて敗者としての屈辱も共にあったのだ。そして戦後は今から考えれば本人は無意識であったが、それこそ矢のように弾丸のように社会は変化しつづけていった。自分の周囲を過ぎていったこの日本の変化を冬彦はよく酒に例をとって考える。彼の子供時代、大人たちが薬用のアルコールを飲んだとか怪しげなカストリにメチールアルコールが入っていて失明したとかが話題になったが、冬彦のアルコール初体験も大学生時代、先輩に誘われ渋谷の恋文横丁の屋台のような中華料理店でパイカルとか楊貴妃とかいう異臭のするアルコールを奢ってもらい、しかも呑み終わるやいなや早く酔うように付近を走らされたものだった。以後はアルバイトで得た貴重な金で通えるのは当時全盛のトリスバーで30円のハイボールだったし、サントリーバーでやっと白にありつき、以後
角になりダルマという黒ビンになり社会人の頃には時折りではあったがスコッチを飲んでいた。当時
夢のまた夢のようであったロイヤル・サルートが今は何千円かで手に入る。どころか若い娘たちには高級ワインやシャンペンの通さえでてくる。大学時代も父親のお古の背広を近所の仕立て屋で直してもらっていたというのに、デパートのつるしの時代は早々に過ぎ、社会人になりたてだというのに勤め先で出入りの洋服屋に一着だけではなく時には二着も同時にオーダーする身分になっていた。冬彦の家は一般的にいえば中流以上の家庭だったと思うが、中学生の頃、自転車を買ってもらうのに一苦労したものだが、新入り社会人の身分で自家用車を買うことをやや本気で考えたりしている。明治の初期にチョンマゲを結っていた日本人が急速に欧米化していった時はもっと激しい変化があったのかもしれないが、日本人というのは激動の時代に生きていく宿命にあるのかもしれない。しかし70才を迎えるにあたってあらためてそう思うのであって当時はこれらの変化にさして違和感を抱かなかったのは何故だったのだろうか。一体そういう時代は人格形成にどんな影響をおよぼしたのであろうか。冬彦が定年退職をしてからのこの十年間、コンピューターの異常ともいえる浸透もまた、時代の大変革なのだろう。ファックスが出現した時、これこそ究極の文明の利器だと信じたことをついこの間のこととして思い出す。
(つづく)
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