2009年(平成21年)1月1日号

No.418

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茶説

大正時代を勉強する
 

牧念人 悠々

 並木書房・ざっくばらん発行人・奈須田敬さんの話を昨年12月に聞く機会があった。その際「大正期を研究すると、昭和期の日本というのが袋叩きに遭うような、ABCDラインがすっーとできてくるんだよ。これはパール判決書をみるとよく出ています」ということであった。大正生まれの私は大正時代には関心を持っていたし、あまり研究もされていないので、そこで今年は大正時代をテーマに取り上げることにした。題して「大正精神史」と名付ける。まだ構想は不十分だが思いつくままに時並列的にまとめてその勉強の成果を発表したい。
 まず「大正改元」からスタートする。
 明治天皇は1912年7月29日午後10時43分、ご逝去遊ばされた。59歳であった。元号は7月30日から「大正」と改まった。次のような改元の詔書が発布された。
 「朕菲徳ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ霊ニ告ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス主者施行セヨ」
 かくて大正の御世を迎えた。
 「大正天皇実録」によれば、元号の候補として「大正」「天興」「興化」の3案があったが枢密顧問官の審議にはかり「大正」が選ばれた。出典は「易経」の「周易上経」から取っている。「大享以正。天之道也」(大いに享るに正を以てす、天の道なり)人の希望するところが大いに通るのは、その動機が正しくなければならない、それは正道に沿うということで天道に合致しているという意味である。嘉仁皇太子様が天皇になられた。時に32歳であった。
 大正時代の精神史を語るのにまず新渡戸稲造の雑誌「新日本」大正4年11月号に掲載された論文「大正青年の進路」から始める。この中で新渡戸は「明治年代は創業の時代であって、大正時代は大成の時代である」といっている。五カ条の御誓文の御趣旨が45年の間に実現されたのかといえば、帝国議会は品位を傷つけ、学問も輸入するのみであり、国民も陋習を改めず、明治維新の大改革、大決心は晩年に至り鈍り、逆行さえしていると指摘する。大正時代の青年はこの五カ条の御誓文を熟読してこれを実現する覚悟を要すると檄を飛ばしている。明治32年12月(1899年)「武士道」を出版した新渡戸稲造の言葉である。
 五カ条の御誓文は明治元年(1868年)4月6日(旧暦では3月14日)に発せられた。
 1、広く会議を興し万機公論に決すべし
 2、上下心を一つにして盛んに経綸を行うべし
 3、官武一途庶民にいたるまで各その志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
 4、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
 5、知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし
 明治時代の近代国家を目指しての国づくりは政治、教育、社会全般にわたり五カ条の原則がその改革のよりどころとなって浸透していった。列強と対等の国力を伸張してゆくにはこの明治天皇が定められた五カ条の御誓文の精神が国民の心の底に流れていたといえる。新渡戸稲造は「大正の青年は須らく知識と正義と実力との三者を唯一の武器として世に処し大正の事業を大成し、大いに世界的に雄飛すべきであろうと思ふ」と結ぶ。
 新渡戸の論文の中で注目すべき事柄がある。「新聞雑誌記者等は侃諤の説を為すものきわめて少く多くは筆先を汚して、醜劣野卑な文字を重ね、みだりに人身を攻撃し自ら天に代わって筆誅せりと豪語し、世間もまた他愛もなくこれを信憑すると云ふに至っては実に沙汰の限りである」とマスコミを批判している。この点について松崎天民が同じ雑誌「新日本」の「大正世相私観」で同じようなことを述べているのは面白い。松崎は「政治上の問題を民衆の力によって左右する様な傾向を生じたのは、確かに大正に入ってからの著しい現象である」と前置きしていう。「その源は遠く非媾和の焼打事件に発足して居るにしても、扇動政治,焼打政治、反対横行政治、野次馬政治は、今や軽視すべからざる勢いで国の隅々まで行き渡って居る。政治と国民生活とが次第に接近して来たのは、喜ぶべき一現象であるにしても、政治が演劇化され、遊技化され,興味化されたのは、これ決して喜ぶべき傾向ではない」。
 今の日本の政治とマスコミの状況と全く変わらない。当時よりテレビがあるだけそのゆがみは増幅されていると言って良い。93年たった今これでよいのか危惧を抱く。