航空士官学校59期・翼源隊帖佐宗親中隊長の七回忌法要
航空士官学59期生による、翼源隊(第二生徒隊24中隊)の中隊長、帖佐宗親さん(陸士50期)の七回忌法要が鹿児島市で行われた(08年・11月24日)。法要出席者は15人、供花者は36人を数えた。地上兵科の私でも帖佐中隊長の高い人望を折に触れて聞ており、うらやましく思っていた。平成14年12月86歳でなくなられた。今なお当時の部下であった同期生達がその人徳を慕うのが素晴らしい。同期生たちは帖佐中隊長を「誠実、情誼、気配り、統率力」兼備された人とも言い、また「泰然自若、慈愛のまなざし、燃ゆる愛国心」を持つ人と評する。とりわけ同期生達は満州・平安鎮での操縦訓練中に敗戦、ソ連軍侵攻を前に帖佐中隊長の指揮よろしきを得て全員無事、復員してきた貴重な経験を持つからこそその絆をいっそう強固にしているのであろう。
鹿児島市内の菩提寺で行われた7回忌法要には卒寿を迎えられた夫人・久子さんも参列、全国から集まった15人の同期生(亡くなった同期生の夫人も1人参加)は亡き帖佐中隊長のご冥福と遺徳をしのんだ。法要に出席した田中長君から借りた「帖佐中隊長追悼録」によると、昭和59年10月の熊本での「翼源会」で帖佐中隊長の提案によって中国残留孤児への援護活動に乗り出し、65万円の募金をしたほか、昭和62年7月には白城地区賓館に残留孤児と養父母を招いて会食している。世話人宇井豊君に話を聞くと、当時操縦訓練をしていた平安鎮飛行場には200名の同期生のほか整備兵なども含めれば500人ぐらいいた。中隊長は最後まで居残り後始末をされた。最後の訓辞で「万一のことがあれば帖佐は武人として立派に死んでいったと思ってくれ」と挨拶されたという。戸頃憲一区隊長(54期・08年・11月25日死去)が指揮して全員を白城子までトラックで、その後は列車で輸送して無事帰国、8月の下旬、埼玉県所沢の航空士官学校に復員した。
帖佐中隊長の教えを受けた中山毅彦君は思い出話をしてくれた。昭和20年4月、満州へ操縦の訓練に行く寸前、航空士官学校館林分校にいた頃。父が軍刀とお金500円を持って面会にきた。その時あいにく無断外出をして兵舎には居なかった。夜遅く帰隊すると「戸頃週番士官が探していたぞ」と同期生が言うのでおそるおそる週番士官室へ行くと、なんと父親が待っていた。その頃空襲で東武線が不通であったので父親は自転車をこいで館林まできた。話もそこそこに父親を帰したが、一向におとがめがなかった。当然無断外出がばれて戸頃区隊長から帖佐中隊長へ報告がされているはずであった。中山君の日頃の行いが良かったのか、それとも帖佐中隊長の温情によるものか、中山君は「帖佐さんは偉かった」と言っていた。軍刀とお金はそのまま持って復員した。戦後中山君は戸頃区隊長に会うごとに「その節は有り難うございました」と頭を下げるという。
「もののふの 誉れ伝えつ 年新た」悠々