2009年(平成21年)4月1日号

No.427

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
連載小説
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

〔連載小説〕

 

VIVA 70歳!

            さいとう きたみ著

 

第四章 (つづき) 

冬彦その4

 

入省して2,3年経った頃、冬彦はワシントンDCの日本大使館へ出向することになる。経済アタッシェとでも言うのだろう。日米間の経済関係の一端を担うこととなる。初めての外国生活でもあるし、英語力が抜群という訳でもなかったので、勉強につぐ勉強で結構大変な日々であった。任期は2ヵ年とされていたが、どうやら仕事らしい仕事を任されるようになったのは優に滞米生活一年を過ぎてからだった。いくつかの思い出があるが何かにつけてすぐに思い浮かんでくるのは、サンフランシスコで開かれた日米経済人会議の時のことである。その会議には日本から大臣経験者を含めた国会議員、財界団体から選ばれた大企業の経営者、そして数人の経済学者、合わせて30人ほどのミッションであった。彼らの現地における接遇が冬彦に与えられた任務である。彼らがサンフランシスコ空港に着くのに合わせ、その出迎えからホテルのチェックイン、食事の用意など、旅行業者の連中を叱咤激励するのも彼の役割であった。到着の日と翌日は特に決められた会議もなく、比較的ゆっくりできるスケジュールだった。そのせいもあってか一日目の日本人だけの会食はリラックスした雰囲気で食後は酒も入ったこともあり、どこか楽しい所へ行こうではないかということになった。大使館の外務省スタッフからは、議員先生たちの多くは女性を所望するということを聞いていたので、いよいよ来なすったな、という感じであった。後に自民党の総裁選にも立候補した声の大きな政治家が冬彦にそういう場所に引率することを命じた。値段の交渉もちゃんとやるのだ、と念を押す。サンフランシスコは冬彦の赴任地ではないので、その種の情報をあらかじめ現地の領事館のスタッフと打ち合わせ済みであった。中型のバスをホテル側に用意させていた。メンバーのうち、半分くらいは出かけるのかと予測していたが、驚くべきことに全員が参加すると言う。慌てて中型バスを大型バスに変更してもらった。常に小さな黒い鞄を大事そうに抱えている老経済学者までが列の後ろを内股でちょこちょこと付いて来る。ドライバーのすぐ後ろの席に坐った冬彦の隣りにその学者がやって来て坐り、冬彦の耳もとで
「君、大体いくらぐらいかかるものかね。」
と小声で訊く。先輩スタッフから聞いていた当時の相場を伝えると、少し安心したような表情とともに
「ところで君、サックはもっているかね。」
と訊く。サックというのがコンド−ムのことだというのは彼の下品な手つきで分かった。そこまでは考えていなかったので一瞬困ったことになったとは思ったが、何とかしましょうと答えたが、だんだんと情けない気持ちになってきたことは否めなかった。目的地へ着く少し手前のドラッグストアでバスを止めさせ、30人分のコンド−ムを求めたが、黒人の店員にウインクされた時は何ともやりきれない思いであった。娼婦の館に着き、どうやら一人一人を個室に入れバスに戻って来ると、ドライバーと冬彦だけになった。日本食には媚薬効果があるのかなどと訊くドライバーの質問は無視して人気のない街路を虚ろに見つめているうちに不覚にも涙が滲み出てくるのだった。俺はついにポン引きまでするハメになってしまったと。帰路、また、冬彦の隣席に坐った老学者が、女が巨体で醜女だったということをくどくど愚痴っている。後方の席では政治家が蛮声を張り上げている。
「何てったって毛唐の女はでかい。膝を立てて足を広げていたが、その足の長いこと、足の間に入って行く時思ったね、これぞゴールデンゲートブリッジだ、ってね」
全員がお追従笑いする中で冬彦は、日本は本当に大丈夫なのだろうかと思ったものだ。あの時代の日本人は一体、何だったのだろうか。旅へ出れば無礼講で女を抱くのが当然という風潮があった。それをその日のドライバーではないが、そういう日本人たちを見つめる外国人たちは、どの様に思ったことだろう。今の若者たちはどうにもならないと批判する老人たちが多いが、少なくとも今の若い日本人たちは酒の呑み方もノーマルだし、群れをなして娼婦を抱きに行くという慣習はない。それだけでも数段上等な人間だと言わざるを得ない。この日のことを思い出すたびに冬彦はそう思うのだった。
しかし日本の政治家たちも随分変わったものだと思う。ワシントンDCに居た頃、多くのアメリカ人たちから問われたのは、日本の政治家たちの声についてだ。どうしてあんなに大声で演説するのかがアメリカ人たちには理解出来ないようなのだ。日本製のマイクロフォンもスピーカーも世界一の性能を持っているではないか、静かに諄々と話せばもっともっと国民の理解を得られるだろうに、と。そういえば田中角栄ぐらいまでは絶叫型の政治家が多かったように思う。野党の連中も同様で、徳田球一も鈴木茂三郎も絶叫型だった。各大学の雄弁会などの伝統があったのかも知れない。テレビに映されることが多くなったことと関連しているのか、普通の喋り方をするようになっただけでも日本の政治家は随分進歩したように思う。新しい政治家といえば、日本の政治家の中にも実に格好の良い人もいる。冬彦が日本大使館勤務を終え日本に帰ってから、かなりの年数が経ってからだがワシントンDCに自らのオフィスを開くような知米派の議員も増えてきていた。そんな頃、恒例のようになった日米経済人会議がニクソンの事件で有名になったウオーターゲートで開かれ冬彦も短期出張を命じられた。この年の会議はかなり大型のもので、日本から若手財界人を含め200名ほどが出席し、アメリカ側からも150人ほどの財界人が参加していた。
午前中の会議ではアメリカ側の日本攻撃が鋭く、英語で進行することもあってその点からも日本側が不利なムードに満ちていた。昼食は大広間で全員一緒にとることとなった。何となく日本側はやりこめられ続けたので気勢が上がらなかった。昼食会場の中央には小さなステージが置かれ、弦楽四重奏がモーツアルトなどを演奏していた。メインディッシュが終りかけコーヒーやデザートなどをとり始めた頃、意外な展開があった。オブザーバーとして参加していた日本の政治家の一人がそのステージに登ったのである。カルテットの演奏が中断した。冬彦は何ごとかと思わず立ち上がったものだ。ステージ脇のマイクロフォンが活きるように要求したその政治家が喋り始めた。素晴らしく美しい英語であった。
最初少し騒がしかった会場が一瞬のうちに静かになった。今日の午前中の会議は日本側にとって少々きつい内容であったが、それもまた、ひとつの歴史的道程でしょう。しかし日米の経済人がどうであれ共にスクラムを組んで仲良くやって行かねば世界の経済は安定しない。両国は真のパートナーなのだから、と言うような内容のスピーチが簡潔に語られた。日本の政治家がメモなしで見事な英語でスピーチするのにアメリカ人たちは聞き入っていた。しかし、もっと人々を驚かせたのはその後であった。喋り終わった政治家がカルテットに近寄り、第一ヴァイオリン奏者に何事かを囁くと、その政治家が彼から楽器を借り受け、彼の椅子に坐った。そして政治家の合図とともに先ほど中断した曲を弾き始めたのだ。
音楽にさして詳しい訳ではない冬彦にもその政治家の演奏が優れたものであることは理解できた。全員が見守り、耳を傾ける数分間が続いた。その楽章が終ると政治家はにこやかに立ち上がり、後方に立っていたヴァイオリニストと握手をし、楽器を返すとステージから足早やに降り立った。拍手の嵐であった。日本人の財界人の中には感激のあまり涙を浮かべスタンディング・オベーションをする人も多かった。午後の会議は午前中と異なり、和気あいあいのムードで進行した。日本の政治家の中にもこういう才能を持つカッコいい人がいるのだ、と冬彦は生まれて初めて日本の政治家を誇らしく思うのだった。その政治家はその後の組閣のたびに何度か外務大臣のうわさがあったが、無派閥のこともあってか、それは実現しなかった。娼婦を買うのもヴァイオリンを弾くのも同じ日本の政治家なのだ。
日本も少しずつではあるが確実により良い方向に移行している面もあるという確信を抱かせてくれる一事件であった。後にこのエピソードを夏男と春介に話すと二人も大いに喜び、夏男は職業柄、映像として残したかったと言うし、春介はそれこそ教養人だと讃えるのだった。ワシントンDCではもう一つ強く印象に残る体験があった。ある日、春介が冬彦の役所にやって来た。世界最大の博物館スミソニアンはアメリカ唯一の国立博物館として有名だが、冬彦がワシントン勤務だった時も、休日の楽しみの最大のものはこの博物館群を訪れることであった。春介はこのスミソニアンの展示物の中でも特に価値があるとされている宝石・鉱石の展覧会を日本で開催することになったのだと言う。海外にこれらが出て行くのは歴史上初めてだと言う。たまたまこれらを展示している人類歴史博物館が大改装されることとなり、この有名な展示物が倉庫の中で2年ほど眠ることになると知った春介は、単身スミソニアンに乗り込み、長い長い協議を経て日本に借り出すことに成功したのだと言う。契約も無事完了し、日本での展示準備も着々と進んでいた時、大問題が生じたのだ。
日本の国営放送局と日本最大の新聞社が共同で「大スミソニアン展」を日本で開催することになったと言う。日本側は元首相を会長とし、他の元首相たちも複数で理事に就任、アメリカ側も元大統領が数人理事につくと言う。日米両国がいわば国を挙げて行う大展覧会企画であった。日本側の委員会としては宝石・鉱石類は目玉中の目玉と認識していたから、すでにそれらが同じ日本人のしかも言ってみれば、どこの馬の骨かも分からぬ春介が個人的に契約を保持しているということに驚き、その契約を反古にするようにアメリカ側に強く迫ったのだ。契約金額もモノがものだけに決して少額ではなく、春介もその工面に大苦労をし、どうやら数社のスポンサーを見つけ、その手当てもつきかけていた時だけに、この攻勢にはまいっていた。何しろ日本での大放送局・大新聞社の力は巨大である。しかも大政治家たちが日米両国から参加している。どう考えてもこの戦いは春介にとって明らかに不利である。表から裏から春介への圧力は日々増大していった。困り果てた春介が溺れる者は藁をもつかむ心境で冬彦の所にやって来たのだ。役人の立場である冬彦にとって何がやれるのか、むしろ役人である立場からすれば春介が対抗する側に立たねばならない、そういう状況であった。冬彦は悩んだ。春介とのたび重なる協議の中で、個人的に考え付くあらゆる方策を練った。しかし自体はどんどん不利な方向へ進む。遂に冬彦と春介はいわば最後の手段として公開質問状の形でスミソニアンに書面を提出することを決断した。正式な契約書がある以上、たとえ如何なることがあってもこの契約は正統なものであるという主張である。しかし、ことを公にするということには当然、問題をより複雑化するという面もある。言わば最後の手段であった。スミソニアン側も困り果てていたのだと思う。
契約の当事者である人類歴史博物館のスタッフも誠に苦しい立場に置かれていた。15とも16とも言われるスミソニアンの博物館群は内部的な組織の変更がなされている渦中でもあった。つまりそれぞれの博物館が独立した権限を持つと同時にスミソニアン全体としての統一した意思も必要ということ、その両立を兼ねた方法が思考錯誤の形で進行していた。スミソニアン全体の意思を統一させるために、その建物のデザインからキャッスルと呼ばれている中央本部があり、ここが日本での「大スミソニアン展」を推進する立場にあった。そのキャッスルは春介の契約のことを事前に知らされていなかったと言うことなのだ。最終的にはスミソニアン側は事を投票の形で決定することとなった。13の博物館の館長とキューレーターが召集され、キャッスルを加えて14の票がこの件を決することとなった。その投票が行われるという日に合わせ冬彦も休暇をとり、春介とともにワシントンに向かった。勿論、冬彦の人脈もフル稼働をさせてはいたが、所詮限度があることであった。投票会議は午前9時から開かれた。圧倒的に不利であることを認識はしていたが、春介と冬彦はスミソニアン近くのホテルで言わば固唾を呑んで待機していた。投票の結果は会議場にいる人類歴史博物館と航空宇宙博物館のスタッフからすぐに電話で伝えてくれることになっていた。午前中の協議では議論百出で投票に至らなかったという。昼食休憩後、再び会議が開かれた。4時を過ぎ5時になってもまだ会議は続いている。夜9時、遂に最終結果が興奮して一スタッフから電話で伝えられた。13票対1票、圧倒的な春介の勝利であった。会議が長引いたのは唯一反対票を投じたキャッスルの猛反対のためであったという。スミソニアン側から出されたコメントは極めて簡潔なもので「われわれはフェアでなければならない」というものであった。春介と冬彦は手を取り合い乾杯をしたのだった。春介が勝ったとは言え、それは法律的な問題であって現実にはそう簡単には行かない。
展覧会のオープンが両者とも同じ時期であったため大きな圧力がかかり、お相手は幕張の大会場、春介は秋田市からのスタートであった。大放送局、大新聞社の力は大きく、春介に会場提供を約していたものの多くが方針を変更し、それでも全国七ヶ所を転戦した春介は、ことごとく所謂イジメに会い、当然のことながら展覧会そのものも大成功という訳には行かなかった。春介が少しずつ仕事の軸足を日本から海外へ移し始めたのもこの事件が契機であった。国営放送局や大新聞社の意を受けて暗躍する大手広告代理店の卑劣とも言えるやり口は特に春介を苦しめた。その後の春介の口癖は、日本を滅ぼすのは大手広告代理店で昔の軍隊と同じだというものだった。テレビの仕事をし続けて来た夏男も同意見で思想も倫理もなく、経済効果のみを追求する広告代理店に未来はないというのが二人の共通した主張であった。
 

(つづく)