2009年(平成21年)4月1日号

No.427

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安全地帯(244)

信濃 太郎

大正時代の女性の俳句事情(大正精神史)

 大正時代は当初から新傾向の俳句の流行と変調がまかり通っていた。高浜虚子が立ち直ったのは大正二年一月である。久しぶりに自宅で開いた句会で次の句を詠む。

 「馬叱る声氷上に在りにけり」

 「ありにけり」はその後、流行をみるようになった先蹤であった。材料をたくさん詰め込めておけば複雑なると考えている新傾向に対して複雑は余情の中にあるのであって、平明の調べから余情が生まれると説明した。その席で別の句を作る。

 「霜降れば霜を楯とす法の城」

 寺院は一度山門をくぐると、そこには何人も犯すことも許さぬ別個の荘厳な戒律の天地があった。虚子はそれを法の城と詠んだ。この法の城は明らかに自分の「俳句の城」を意味している。この句は虚子俳句の復活を記念する歴史的な意味がある作とされている。
 さらに2月11日の三田俳句会での句である。

 「春風や闘志抱きて丘にたつ」

 闘志とは新傾向俳句に対して伝統をあくまでも守るというものである。私が注目したいのは虚子が女性に俳句を勧めた点である。すばらしい事だと思う。
 大正2年6月号の「ホトトギス」に女性ばかりの俳句「つつじ十句集」が載っている。

 床几置く柴山丸くつつじかな   かな女
 山つつじ温泉宿の眺め夕なる    同
 まだ咲かぬつつじの岩や桜咲く  てふ女
 かげも無く鳴く鶯や岩つつじ    同
 つつじ咲いて早日傘見る日比谷かな 真砂女
 山と江に臨む長者のつつじかな   つゆ女
 つつじ生けて此の間明るくなりにけり かめ女
 折つては捨また折つて捨つ山つつじ  勝代子
 停車場の棚に燃えたるつつじかな   すみ子
 西の窓一間へだてしつつじかな    かづこ

 かな女は姓を長谷川といった。虚子に注目された俳人であった。亭主も零余子と号した俳人。かな女の句が最高点だったという。楠本憲吉によれば最高点は同じく、かな女だが、俳句が村山古郷のあげる句(「大正俳壇史」角川書店)とは違う。楠本があげる句は次の通りである(アサヒグラフ別冊「女流俳句の世界」1986・7・1号)。

 富士川や飛流の岩につつじ燃ゆ
 山迫る窓に明るきつつじかな
 蟻の路つつじの岡をめぐるかな

 私が選ぶなら勝代子の句を選ぶ。女心がよく出ている。当時女性で俳句をやる人は少なかった。その意味で虚子が家庭婦人を俳句に誘ったのは立派な業績だと思う。その後かな女を中心に金子せん女、阿部みどり女、室積波那女、今井つる女など大正俳句史を彩る女性俳人が出現した(村山古郷著「大正俳壇史」・角川書店)。

 月下美人力かぎりに更けにけり  阿部みどり女
 ぬくもりし助炭の上の置手紙   今井つる女

 明治44年9月、平塚らいてうは「原始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような青白い顔の月である・・・」こう宣言して文芸誌「青踏」を発刊した。“新しい女”の旅立ちである。当時の新聞はこれを揶揄した。翌年の3月青踏社の新入社員、尾竹一枝が広告を取ろうと伯父の尾竹竹坡画伯と日本橋のレストラン兼カフェを訪れた際、主人のすすめるままに五色の縞模様のカクテルを飲んだところ、新聞は「新しい女、五色の酒を飲む」を書きたてて世間の顰蹙を買った。また平塚らいてうら3人が勉強のため吉原の廓にあがって事情を聞いたのを、またまた新聞に「吉原に遊興する」と書きたてられた。新しい女は不道徳のサンプルにされてしまった。新しい女とは古き思想、古き生活に満足することのできない人たちであった。
 大正2年2月号の「青踏」に福田英子の論文「婦人問題の解決」が掲載された。「本当の意味での婦人解放は、男から女を解放するものではなく、男女ともども、資本主義の制約から解放された共産制のもとでなくてはありえない。男女の真の愛情というものは、私有財産制が消滅し、金銭結婚がすたれ、経済的、利益的結婚がなくならなくては実現できるものではない」これを見て桂内閣は「青踏」を発禁処分にした。女性の敵は意外にも別にいた。高浜虚子「女性俳句の勧め」は単純明快である。「つつじ十句集」の前文に次のように言う。「この頃自分の妻子の物事につき自分と趣味の隔絶していることを怒る前に、これに趣味教育を施すのを忘れていたことを思わざるにはいられない。何も教育せずにおいて慣らされ見離さる妻子は災である。私はとりあえず自分の妻子に俳句を作らせることに思い至った」
 妻の糸子には「子供病でつつじ咲くころとなりにけり」の句があるが、俳人とはならなかった。
 高浜虚子は「人間は汗を流すばかりでなく涼風を満喫するのも人間である。花鳥とともにおり、風月とともにいるこれが人間の一面の姿である。俳句は花鳥諷詠の文学である。これは我が国ひとり存在するところの特異な文学である」といっている。とすれば俳句を作るのに男も女も同じであるという考えであったのであろう。蕪村編「徘諧玉藻集」には江戸時代すでに約130人の女性の俳句があるので大正時代から女性が始めたというのでもないにしても盛んになりだしたといえよう。
 虚子の首唱で「ホトトギス」に「婦人十句集」の欄ができ100回以上続き「家庭十句集」をへて長谷川かな女主選の「台所俳句会」となる。「小芋の皮をむきながら灰神楽を被りながら詠める俳句は家庭の女性たちの楽しみであった」とかな女はいう。女性俳句はいくつかのいや幾百の水脈となって流れる。

 征く人の頭を美くしくと冬の街に  原コウ子
 炎天や一片の紙人間(ひと)の上に 文挟夫佐恵
 敵艦沈め冬白浪ぞ高鳴れり     三橋鷹女
 農夫の罵詈に黙しとほすや冬の虹  加藤知世子