〔連載小説〕
VIVA 70歳!
さいとう
きたみ著
第三章 (つづき)
夏男:その3
夏男が日比谷高校という誰しもが受験校として認めている高校に入ったのはごく自然で迷いはなかった。小学校、中学校を通じて常に一番の優等生だったからごく自然のなりゆきであった。中学校の卒業に際して後味のよくない一場面があった。卒業式を前にして担任の社会科教師に職員室に呼ばれた。開口一番、その教師は君が卒業生総代になることは遠慮して貰いたいという。母一人子一人であるそこそこ優秀な友人の一人を総代にしたいともいう。夏男は別に総代などどうでもいいとは思っていたが当然自分がその役を担うと思っていたし、仮にそうではなくても何でわざわざ自分にそのことをつたえるのか、そこに不自然なものを感じ、何故、僕じゃ駄目なのですか、と問うた。日ごろから夏男に好意をもってくれていた教師の何人かが明らかに我々はそう思っていないよ、とでもいうように席を立って出て行った。口ごもっている担任に対し再び同じ質問をした時、横に坐って三白眼で夏男をにらみつけていた若い英語教師が突然立ち上がり、大声で叫んだ。
「生意気言うんじゃねえよ。お前はそういう風に生意気な口をきくから総代にしないんだ。」
夏男はこれ以上ことをこじらせない方が良いと考え、
「分かりました。どうぞご勝手にお決めください。」
と答え足早に職員室を出た。廊下からすぐ校庭に出たが、何故か涙があふれてきて、あわてて人気の無い奥の方角に向かった。その日の夕刻、下校時間に音楽担当の若い女性教師に呼びとめられ白い封筒を渡された。英語の教師が怒鳴った時、この女性教師がその後方の席でじっと下を向いていたことを思い出した。帰宅の途中、封筒を開けてみると、どうか冷静を保ってください、私たち誰もがあなたが総代になる資格者だと思っています。もしこんなことで気をまぎらわせてもらえるなら、これを受け取ってください、という手紙と共に音楽会の前売り券が入っていた。モーツァルトのオペラ、コシファントゥッテの入場券だった。二週間後の週末、日比谷公会堂でそのオペラを二人並んだ席で観た。終演後、公会堂の庭には沈丁花が満開で、その香りであふれていた。女教師が少し涙ぐんだ声でささやく。
「ね、ね、元気だしてね、私は夏男君が大好きよ。」
そういって彼を抱きしめ、驚くことに夏男の口に口を合わせもう一度強くだきしめると走り去って行った。今でも走り去る時の赤いワンピースと彼女の白いふくらはぎがはっきりと蘇える。それが異性と接吻をした初めての体験であった。後に芥川龍之介の伝記を読んでいたら、彼は小学校卒業の時に夏男と全く同じ体験をしていたのだということ、そしてそれが一生忘れ得ぬしみのようなものだったということを知った。彼の場合は卒業の直前の作文で、美しいと思うもの、可愛いと思うものという題を出され、美しいのは雲、可愛いのは象と書いたところやはり担任に呼ばれ、生意気だと叱られ総代になれなかったのだという。夏男はそれを知り少しはあの事件の苦い味が減少したものだった。一方音楽の女性教師は後に知ったことだが人もあろうに夏男を怒鳴ったあの三白眼の英語の教師と結婚したという。それを知り甘美であった思い出が一挙に色あせたものになった。そうして日比谷高校生になった。すぐに冬彦、春介という仲間と出会い高校生活は楽しいものとなった。しかしすでに一年の時点で何となく受験勉強に馴染めず、さしたる理由もなく自分は東大に行かないのではないかと思い始めていた。女子を除くと、300人の同級生の中、100人は東大に入れるのが例年のことなのだからクラスの三分の一以上の成績をとっていればそれが可能なわけで夏男にも十分合格の資格があった。いつとはなしにその位置を保つことに喜びを覚えなくなっていた。真正面に入試だけを見つめている同級生たちが最も忌み嫌うことが受験勉強に役立たぬことごとだった。つまりは面白い文学であり愉快な映画であり音楽であり芝居などである。青春時に関心を持つ世の中のさまざまなことごとに仙人のごとく聖者のごとく目を向けないという生活に強く疑問を抱くのだった。秋の文化祭の時、恒例の企画で日比谷高校、つまり旧府立一中の卒業生の中から有名人に講演をしてもらうというのがあり、二年生の秋には徳川夢声がその先輩だった。当時も売れっ子だった彼に承認してもらうのに結構苦労を強いられ、夏男もその役を担当していた。氏は“一中くずれ”という言葉が意味するものの代表格の人物で中学を終えただけで社会に飛び出た人だ。通常は講堂が満員になる企画だというのにその日は何故か空席が目立ち、参加している生徒たちの間にも一種の白じらしさが漂っていた。優等生たちだけでなく全生徒に“一中くずれ”の話なんか聞いても仕方がないというムードが満ちていた。事実それをはっきり口にする生徒さえいた。夏男が日比谷高校生とその言動に何ともいえない失望を覚えた一つの出来事であった。
「俺たちこのままこのムードに流されていると、東大には入れるかもしれないけど、教養のない人間になるかもしれないな。」
と、冬彦に言ったことがある。
「教養か・・・。教養ねえ・・・。」
その時冬彦は彼の意見は述べなかった。それから半世紀も経た今日このごろ、冬彦がしきりに教養について言及するので一体冬彦はあの時の会話を覚えているのだろうかと可笑しく思うのだった。案の定、夏男は東大には入れなかった。入試試験の日、当初から東大合格を目標にしていなかった春介が意外な行動をとった。彼は試験場に入る前にポケットからウイスキーの小瓶を取り出し夏男に示し、数学のテストの間にこれを全部飲み干すのだと宣言したのだ。いくら東大、東大という流れに反感を持っていてもちょっと行き過ぎた行動だと思ったが、別にそれを止めるすじあいもなく黙っていた。ななめ前の席の春介が時折、不自然な行動をしているのは見てとれた。結果的に夏男は慶応に入った。何年か先輩で後に有名な評論家になった江藤淳氏が数学が苦手なので東大ではなくはじめから慶応を目指していたことを知り何かほっとしたものだった。いずれにせよ大学時代の夏男は学業はさておき、ほとんどの時間をテレビ局で過ごした。かねてからものを創るということを一生の仕事としようと思っていたし、時代的にはテレビがマスメディアの主流をしめるであろうことは明白であった。テレビの制作現場は夏男が好ましく思えることに満ちていた。日々、彼はこの仕事場に魅せられ没入していった。結果的にこのいわばアルバイト体験が実績となり大学卒業時このテレビ局に正式採用されることとなる。
このアルバイト中に夏男は恋をし結婚をすることになる。このテレビ局が放映するドラマの準主役のオーディションに参加していた女性である。沢山の若い女性たちの中でひときわ目をひく女性だった。彼女の周囲にはいわばオーラが漂っていた。結果的には彼女ではなく強力なスポンサーの縁者である平凡な女性が強引に押し込まれることになるのだが、夏男はその美少女を忘れることができず、やみくもにデートをせまり、短い交際期間の後、結婚を決意する。二人で歩く姿は人々の注目を浴び、夏男は単純にわが妻の美しさが自慢であった。その後、長男と長女の二人の子供にも恵まれ、よい家庭が築けたという満足感さえあった。夫婦の仲に微妙なすきま風が吹きだしたのは、夏男がディレクターとして一本立ちし、その後、仲間たちと局を離れ独立プロダクションを設立した頃からであった。がむしゃらに働かざるを得ない境遇の中で、帰宅の時間は不規則になり、父親として夫としての役目も当然のように不十分になった。仕事で付き合うタレントたちとの親密さも妻には気に入らぬようで、ごく些細なことでも口論の種になった。決定的になったのは息子が学校で犯したひとつの事件だった。小学校から大学までストレートで進める私立の学校に入り、ひと安心していたのだが息子が中学2年のときにこの事件はおきた。ある夜、めずらしく早く帰宅した夏男は額に白い包帯をしている息子に気づいた。定年まぎわの一人の教師がちょくちょく生徒に暴力をふるうということは聞き知っていたが、息子も今日、その教師にこづかれているうちに転倒し、教壇の角で額を割ったのだという。疲労の極にあったこともあり、いつもながらの妻の冷たい対応もあり、明らかに夏男はヒステリックになっていたと思う。
「殴られたら殴り返せ。但し、お前が殴られた時には何らかの非行がお前にもあったのだろうから反抗してはいけない。しかし、お前の友人が全くの濡れ衣で殴られた時は勇気をだしてそれを阻止しろ。」
そのような意味のことを言った。あきれたように目を見張って立ちすくむ妻の姿があった。
そしてその夜から数ヶ月たった時、息子は夏男の言ったとおりその教師と争ってしまったのだった。急遽
父親への呼び出しがあり担任の教師とともに、くだんの教師も現れ、停学処分を言い渡された。夏男は心外ではあったが、この場で親がどう反論しても事態がよくなるわけはないと諦め、その宣言を甘受した。結果において息子は一年留年することになる。留年が決まった日、妻がめずらしく夏男のオフィスに電話をかけてきた。あなたの無分別のことばが息子の誤った行動をよんだ。そして息子の一生にとって取り返しのつかない留年という屈辱をもたらした。あなたは息子の父として完全に失格者だ。二度と息子の前に姿を現さないで貰いたい、そういう主旨だった。
「つまり、家から出て行けということか?」
そう問う夏男に妻ははっきりと、そういうことだと告げた。ちょうどその日には徹夜になりそうな仕事も抱えていたこともあり、深く考えもせずに分かったと言って電話を切った。
そして夫婦の別居がスタートしてしまったのだ。自宅の月々のローンの支払い、生活費、教育費の送金、それに加えて自分自身の小さなアパートの家賃と男の独り暮らしにありがちな無駄な出費などが重なり経済的には決してらくではない身となり、ますます夏男は働かざるを得なくなった。夏男はアパートのちいさな机の上に息子と娘の写真を飾ったが、妻の写真はついに飾らなかった。離婚をするという決意は年とともに少しずつかたまっていた。
もう二人は元に戻れないという暗い確信が増していた。何故なのだろう、あんなに自分の妻を誇らしく思っていた時期もあったというのに。すぐに思いつく理由は妻が自分の仕事を理解しようとしなかったということだ。テレビ制作という時間を超越した仕事の中で、よき夫、よき父を保つのは容易ではなかった。まだ、二人の仲が冷え切っていない頃であったが妻がポツリと言ったことがある。今度結婚する時は東京電力や、東京ガスのメーターを測っているような人と結婚するんだ、と。毎朝決まった時間に出勤し、夕方5時に仕事が終れば真っ直ぐ家に帰って来る。家族と一緒の夕食後は、テレビで巨人・阪神戦に熱中し、土曜・日曜は近所の公園に家族そろって散歩をする。子供たちが寝た後に夫婦二人でビールを一本飲むの。そして旦那はその後お銚子を一本、多いときでも二本、そうして仲良く寝るの。ベッドではなくてお布団がよい。単調で退屈な仕事かもしれないが、仕事上の悩みや苦労も少ない。収入も知れたものかもしれないが、退職するまで安定していてその後の人生設計も立てやすい。野心とか夢の実現とかいう無意味なものへの挑戦は青年時代だけにして、結婚をしたら妻子のことだけが頭の中を占める人がよい。そういう意味のことを言っていた。その時は、一種のジョークのように受け止めていたが、今となって考えれば、まさに彼女の本音だったかもしれない。銀行のポスターのような家庭ということも言っていた。並木道を親子四人が手をつなぎ仲良く歩いている風景という意味だったのだろう。子供たちが幼かった頃、ピアノかエレクトーンかを習わせようという話になった時、彼女の発言は夏男をびっくりさせた。
「エレクト−ンの方が良いと思う。ピアノだとひょっとして上手になると、モーツァルトだ、ショパンだなどと言うかもしれない。私はエレクトーンでクリスマスソングを弾くぐらいで終ってくれる方がよい。」
不思議なことを言うものだと思ったが今となれば良し悪しは別として、どうやら二人は異なった世界に生きていたのだと思う。二人は別れるべき定めにあったに違いない。別れることが正式に決まる前に、夏男は息子を呼び出し、その件をきりだした。彼は留年したにもかかわらず順調に進級し大学生になっていた。どういう反応をするか、想像もつかずいささか夏男の方が緊張していたように思う。息子の発言は予期せぬものだった。
「しょうがないと思うよ。お父さんとお母さんはあまりに違う、違いすぎる。お父さんがお母さんと一緒になったのはお母さんが美人だったからだけだと思う。お母さんの若い頃の写真を見ると僕でさえ、すげえ美人だと思うもの。今度結婚する時には美人でなくても良いから自分に近い人と一緒になるんだね。ハリウッドの三流女優なんかとじゃあ駄目だよ。」
夏男は何だか息子に言われているのではないような気がした。いつになく言葉少なく、あろうことか別れる時には息子に向かって頭を下げたりした。娘との対話はごく短いものだった。娘の発言はたった一言だった。
「分かってる、分かってる、じゃあね。」
夏男の離婚はこのようにして成立した。その後息子が社会人になり30才になるまでは多額ではないが送金はし続けた。
偶然に芥川龍之介の「小説作法十則」というのを見ていたら最初に「小説はあらゆる文芸中、最も非芸術的なるものと心得べし。文芸中の文芸は詩あるのみ。」とあってびっくりした。そういえば「或る阿呆一生」の冒頭で「人生は一行のボードレールにも若かない」と書いているが、これもまた「詩」というものの重要さを言っているのであろう。詩というものが人類にとって非常に大切な芸術であるということは聞いてもいたし、歴史上においても大きな影響を与え続けて来たものだという知識は多少あったが、自分自身を振り返って見た時、詩との出会いが皆無に近いことに気づく。中原中也や萩原朔太郎に少しかぶれたこともあったが、彼らの詩で記憶しているものはほとんどない。外国人の友人たちが、会話の端々に有名詩人の詩の一節をさしはさむたびに夏男はある種の羨望を覚えていたものだ。イエイツの詩の一部を覚えていたと言っても所詮冬彦に教わったもののごくごく一部でしかない。自分の人生にとって詩とか詩人とかは無縁のものであったと、やや淋しく思っていた。が、実は夏男の生涯に一人だけ詩人との出会いがあった。しかしそれは詩人である人と偶然つきあったというだけのことであって彼女の詩の理解者でもなければ愛読者でさえなかった。春介と異なり、さほど女性体験が多くない夏男にとっては数少ない“恋”と感じた体験であった。彼女との出会いは酒場だった。夏男より少し年上だと思えるその女性は大柄で華やかな印象だったが、思い切り派手な和服姿であったので正体不明の女性であった。お互いに一人客だったので混んだ店でたまたま向かい側に座り、何となく二人は話しはじめた。何がどうであったのか、二人は同時に互いに魅かれる感じを覚えた。相手がどういう人なのか全く知らない。名前さえしらない。間もなく二人は揃ってその酒場を出た。夜も更けており人影がなかった。
「グリコ・パイナップルって知っている?」
彼女が訊く。
「ジャンケンね。」
「そう、しよう!」
二人は人気のない街灯から街灯に向かってジャンケンをし、グリコ・パイナップル・チョコレートと交互に歩を進めた。彼女の派手な和服のすそは大きく乱れ白い足袋がきわだっていた。ふと気がつくと彼女が勝ったときにはグリコが圧倒的に多い。夏男はなるべくチョキを出して彼女が勝つように仕向ける。普通は沢山進めるパイナップルやチョコレートを出したがるものだが、そんなことに拘泥しない彼女が好ましかった。そうして二人は恋に落ちた。Y・Yという名の詩人であった。世間は狭いものだと思うが、この詩人とは春介も知り合いであった。ある夜、春介から呼び出されてその頃春介がしきりに通っていた青山のバーに出向いた。ナイトクラブの売れっ子ホステスをへてこのバーを開いたママは思わず人が振り返るほどの美女である。ある人たちは彼女を整形美人なのだと評していたが、本人は別にそれを否定するでもなく、明るく振舞っていたので整形だろうがなかろうが美しさに変わりはなかった。所用があって春介との約束の時間に少し遅れてその店に入るとママの前に春介と二人の女性が坐っていて、その一人がY・Yだった。もう一人の女性は春介が親しくしていた歌手で、超有名映画スターとデュエットで出した銀座の歌が大ヒットし、その後やや売れ損ねてはいたが本来のスタンダード・ナンバージャズに戻り、ちょいと気のきいたクラブなどで歌っており、夏男も時折
春介に連れられて彼女の歌を聴き、その後三人で一緒に飲んだことなどがある女性だった。この美人ママにせよ、この歌手にせよ春介と愛を交わしたことがあるのかもしれないが、絶対に女性との関係を公言しない春介の性格をしっているので聞きもしなかった。Y・Yとだって何かがあったのかもしれない。いずれにせよY・Yと歌手が、この店のために歌を作り、今夜がその発表会なのだという。歌手がギターを抱え、Y・Yの作詞による自作の曲を歌いはじめた。すべて春介が仕掛けたことに違いない。どんな歌であったかもう忘れてしまったが、Y・Yのキラキラとした瞳が印象的であった。もしこの三人の女性たちと春介との間に何かがあったとしたら、三人に囲まれた春介のその時の心中はどんなものだったのだろうか。
Y・Yとの恋は短期間に終った。突然現れ、突然消えるのがいかにも彼女らしく、夏男にも納得できるものであった。しかし彼女とのことは若き日の鮮烈な思い出として今も時折想いおこす。加えて彼女のイメージをもしかするとより美化したものにしたのは実は現在の妻から見せられた一つの短歌であった。妻は短歌を作る趣味をもっており、それなりに専門の歌人の作品を読んでいる。現代短歌のその道では著名な歌人だという人の作品を教えられたが夏男には初めて聞く名だった。その歌人は葛原妙子といいその作品は次のようなものだ。
さきの世のさらにさきの世われはいて
美しきかな冬の浴(ゆあみ)す
というものだ。妙子70才代のときの作品だという。永遠の少女ともいえる女性の沐浴姿、それはどう考えてもこの女性はY・Yがそぐわしい。夏男はまさかカンナにそれを言うわけにも行かず、しかし、しっかりとこの歌をノートに記したのであった。Y・Yの作詞による秋の海をうたった有名な歌を聴くたびにも彼女が真裸で秋の海に遊ぶ姿が思い浮かぶ。今も湘南の一都市で詩作を続けていると風の便りで知るが、もう会うことはないだろう。
彼女がくれた彼女の詩集が一冊だけ手元にある。その中の一つ「男に」というタイトルの詩がある。終りに近いところで彼女はこう歌う。
あなたが旅へいってしまったので
わたしは泡だけになってしまった
あそこなんて焼いてしまった
あなたはスペインで
みだらな黒い牛を殺すだろう
その血のついた巨きい角で
わたしの魂を殺すだろう
あすこなんて焼いてしまったという部分には、いささか驚かされるが、しかしそれもまた、いかにも彼女らしいおおらかさであり不快にはならない。詩や詩人とは無縁な人生ではあったがこの不思議な詩人と出会えたことは甘美な人生の一こまであったと言える。彼女と別れてから大分たったある日、週刊誌に政治家で作家のI・SがY・Yについて書いているのを見つけた。彼女と同姓同名の銀座のクラブのママがいて、その頃そのママが盛んに歌謡曲の作詞をしていたのだと言う。かの有名な秋の海を歌った歌の作詞家でもある本家本元のY・Yと同姓同名のまま歌詞などを作るとは失礼ではないかという主旨で、何か子供がダダをこねているような文章だったがY・Yの肩を持ってくれている人がいるというのは、夏男にとっても気分の悪いものではなかった。
(つづく)
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