2009年(平成21年)3月20日号

No.426

銀座一丁目新聞

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追悼録(342)

趣味は「強いて言えば政治かな」といった梶山静六さん

 友人、後藤久記君から梶山静六さんの追悼集を借りた(2001年5月10日発行)。
 同期生が集まり、政界のリーダー不在に話が及ぶと「梶山が生きていたら・・」ということになる。彼の頭のなかには常に国家というものがあり、難事に身を呈す気概があった。梶山静六さんがこの世を去ってすでに9年になる(2000年6月6日死去、享年75歳)。その死は今でもおしみて余りある。
 追悼集に一文を寄せている麻生太郎首相(当時の肩書・経済財政政策担当大臣)は「事件が発生した際、その対応する判断、手法が優先順位をつけて、てきぱきさばいていく様子を見て平時に不向きで非常時に向いた政治家だなあ・・・と思った。国という意識が、常に頭の中にある人とも思い何となく好感を覚え始めた」と書く(第2次橋本竜太郎内閣の時で梶山さんが官房長官で麻生太郎首相は企画庁長官であった)。さらに平成10年7月自由民主党総裁選の際、小淵恵三、梶山静六、小泉純一郎の3人が立候補。麻生太郎が属する河野洋平派は梶山静六を押し、推薦人となる。それまでは梶山さんは橋本竜太郎を支持して河野派とはむしろ敵対関係にあった。かっては河野降ろしを実行した梶山さんに総裁選挙にあたって推薦人20人の名簿作成に河野洋平が力を貸したのである。おかげで梶山候補派は102票を獲得2位となる。後に梶山さんは何度となく「自分の人生で仇を恩で返されたのは、河野さんがはじめて…」と聞かされたと麻生太郎はしるす。
 石原慎太郎東京都知事も書く。竹下登内閣(昭和62年11月)で石原さんが運輸大臣、梶山さんが自治大臣で、これが二人の出会いだという。派閥を超えて友情が芽生えたのはインスタントのワンカップのお酒であった。内閣が発足して翌年の正月、伊勢神宮に恒例の参拝をした後、正月の寒さの中、直会でも酒が出ず、全員肩をすくめてがっかりしていた。梶山自治相も同じであった。そこで石原運輸相は帰りの電車に乗る前に秘書官にお燗のできるワンカップを2,3本とおつまみを買いにやらせた。電車に乗って帰途に就いた時、隣にいた梶山自治相にとっておきの燗用のお酒とおつまみを進呈した。「その時の梶山さんの相好の崩しようといったらなかった」という。酒の飲めない私にはこの機微は分からない。コーヒーのほろ苦さならわかる。それにしても石原運輸相の見事な心配りであった。
 小沢一郎民主党代表(当時の肩書・自由党党首)も一文を寄せる。梶山さんと二人で竹下登をかついで創政会を作り、田中角栄からどやされた苦労話を書く。梶山さんが総裁選挙に立候補して以来「日本の現状への危機感と改革断行への決意が強くなったと感じたという。追悼の言葉の結びは「今日の日本の危機的状況と政界の現状を思うとき、かけがいのない政治家を失ってしまった。その思いが私の心の中で、日に日に多くなっている」であった。私たち陸士59期生の同期生はその思いをさらに強くする。

(柳 路夫)