2009年(平成21年)3月20日号

No.426

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
連載小説
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

安全地帯(243)

信濃 太郎

新渡戸稲造の武士道と平民道(大正神史)

 「大正時代に活躍せんとする青年は須らくこの五カ条の御誓文を熟読してさらに大正時代においてこれを実現するの覚悟を要する」と述べた新渡戸部稲造の武士道についてふれたい。戊辰戦争から第二次大戦の間まで生き抜いた新渡戸部稲造の「武士道の精神」は大正時代にいかなる形で具現したか。その著書「武士道」(矢内原忠雄訳1938年10月15日第一刷発行・2000年10月25日第68刷発行)の第17章「武士道の将来」に次のように書かれている。「今日吾人の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりもさらに高くさらに広き使命である。拡大せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に孔子の仁の思想―仏教の慈悲思想もまたこれに付加すべきか―はキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう」新渡戸は武士道がさらに進化すると説く。
 「武士道を読む」(平凡社)の著者太田愛人は明快である。「武士道に代えて新渡戸が強調したのは平民道であり、封建主義に代わって民主主義を提唱したのである」と述べ、「大正時代にその流れが顕著になった」と指摘する。この本に「野村胡堂と平民道」について記述がある。新渡戸が1906年(明治39年)9月一高の校長に就任した時野村胡堂は2年生であった。昭和に入って胡堂が描く銭形平次は商人や農民の味方の姿勢を持ち続けたのも新渡戸の影響が大きかった。昭和8年から10年ごろにかけて私はよく「銭形平次捕物控」を読んだ。中学校入学の際、将来の希望を聞かれて「刑事になりたい」と答えたほどであった。野村胡堂はクラシック音楽の愛好家で、クラシックレコードの収集家でもあった。昭和12年ごろ、月に一回、土曜日の午後、母校東大の25番教室でクラシック音楽を東大生に聞かせ解説までし、1万枚に及ぶレコードのコレクションから、ヘンデル、ハイドン、バッハ、モーツァルト、ベートベン、シューベルトと続く西洋音楽を系譜を追って体系的説明したという(庭山慶一郎著「懐旧90年」(毎日新聞刊)。
 平民道といっても武士道と対立するものではなく、「強きを挫き、弱きを助ける」「悪を懲らしめる」「困っていたものを見たら手差し出して助ける」の徳目は武士道となんら変わらない。もともと新渡戸の「武士道」は「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」「宗教なしでどうして道徳教育を授けるのですか」の質問から、武士道がそれに代わるものであると見出して執筆、出版されたものである。封建制度がなくなり武士階級が消えても武士道が残したもろもろの徳目、「義」「勇・敢為堅忍の精神」「仁・惻隠の心」「礼」「誠」「名誉」「忠義」「克己」は形を変えて伝わっていくのは当然であろう。それらの徳目は人によって濃淡があるにせよ生きる人間としての「誇り」である。
 武士道の徳目をもっと要求されるのは軍人である。大正時代の軍人はどうであったのか。明治15年1月4日に「軍人に賜りたる勅諭」で「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」をもとめられている。しかも結びで「さてこれを行わんとするやひとつの誠心こそ大切なれ」と諭されている。これが軍人精神である。大正時代、陸軍士官学校に学び、卒業した士官候補生は大正2年5月714名が卒業した25期生から大正15年7月、340名が卒業した38期生まで5693名を数える。大正デモクラシーの波にもまれ、軍縮の嵐の中を巣立った。鍛錬の場所は市谷台。教育期間は3年10ヶ月であった。創設以来の伝統は「生を捨て義を取り名節を尊び廉恥を重んずる」にある。その精神を修養する場であった。この中から多くの軍司令官、師団長、軍務局長、参謀本部作戦部長、作戦課長、連隊長、高級参謀としてそれぞれ大東亜戦争に参加した。ある者は戦死、自決、ある者は2・26事件に連座、刑死、軍を追われたものもいる。米国武官を務め対米戦争の非なるを説くも聞き入れなかった者、対中国との和平に努力するも報われなかった者もいる。フィリッピン・レイテ戦で戦死された16師団長の26期・牧野四郎中将は陸士予科在校中の校長であった。59期生にあたえた「花も実もあり、血もあり涙もある武人たれ」の入校時の訓示は忘れることはできない。比島着任後の陣中日誌に次の歌が残されている。
 「この宵を守る歩哨にこと問えば琵琶湖のほとり独り子と云う」
 牧野師団長は情誼厚き武人であった。
 26期には終戦時比島の第14方面軍兵站監で戦犯に問われ死刑した洪恩翊中将、硫黄島で玉砕した栗林忠道大将(陸大恩賜・最後の陸軍大将)らがいる。35期の松谷誠(工兵・恩賜)は終戦時、鈴木寛太郎の首相の秘書官を務めた。戦後、自衛隊に入隊、陸将となる。北部総監の時、有事法制の必要性に着目、幕僚にその研究を命ずる。これが統合幕僚会議の三矢研究となったが国会で暴露されて物議をかもした。万一に備えて研究するのは自衛隊として当たり前のことであるのにそれを問題にするところにこの国のいびつさがある。「治にいて乱を忘れる」輩のなんと多いことか。33期には「大義』をあらわした杉本五郎がいる。歩兵11連隊中隊として支那事変に出征、少佐に昇任後の昭和12年9月戦死した。私自身「大義」はよく読んだ。「汝、我を見んと要せば尊皇に生きよ。尊皇精神のある処、常に我在り」は記憶している。作家城山三郎は戦後「大義の末」(1951年9月刊)を出す。「大義」こそ自分の生きる道と信じて死んでいった軍国少年への鎮魂歌であり、生き残った若者たちの虚脱,絶望を描きさらに天皇制とは何かと問う作品であった。この期には詩人三好達治もいる。名古屋幼年学校、陸士と進み、工兵第19大隊(会寧)の士官候補生であったが、在学中に退校した。京都の三高に入り直し大正14年に卒業、さらに東京帝大のフランス文学科に入学、昭和3年に卒業する。時に28歳であった。室生犀星の「高麗の花」と萩原朔太郎の「純襄小曲集」が終生忘れがたき詩集だという。3年後の第一詩集「測量船」(第一書房)を出す。軍人をやめた理由を知る由もないが三好に「志おとろへし日には」の詩がある。「こころざしおとろへし日は/いかにせましな/手にふるき筆とりもち/あたらしき紙をくりのべ/とほき日のうたのひとふし/情感のうせしなきがら/したためつかつは誦しつ/かかる日くるるまで」
 戦争中多くの戦争詩を作ったことを戦後非難された。同期生437名は戦場に出て戦っており、帷幕の中で謀をめぐらすものもおれば第一線で戦死したものもいる。詩人に詠うなという方が無理ではないか。三高の同級生の桑原武夫は「君はやはり自然詩人であった。自由を持たぬ日本人が戦争を歌おうとすれば、戦争は天地異変にほかならぬわけであり、自然詩となるのは当然である」と理解を示す(河盛好三蔵編「三好達治詩集」新潮文庫)。
 33期、鈴木庫三は「日記」(大正8年3月13日)に当時の状況をつづる。「新聞紙の報ずるところによれば今回の講和会議において、我が国委員は徴兵撤廃問題に賛成せりと。国民のなかには、これを喜び軍隊を嘲るものあり、実に慷慨に堪えざることなり」
 大正7年12月にイギリスのロイド・ジョージ首相が徴兵撤廃論を提唱、国内では議論がまき起きた。さらに鈴木庫三の「日記」(同年3月16日)をつづける。「世界の大勢及、これに対する我国人の迷える思想界の大体を知るを得、大いに決心するところありたり。嗚呼、我が国の洋化50年、総ての物に於いて欧米の我が国より優秀なりと迷いつつあるわが国民は、今実に国家に一大事を惹起せるなり」(佐藤卓己著「言論統制」情報官鈴木庫三と教育の国家国防・中公新書より)この日記からも当時の軍縮時代の世相が理解できる。
 36期(卒業生330名)が在校中の大正11年第一次世界大戦後の世界的軍縮ムードの中で陸軍は5万7千名の人員が整理された。山梨軍縮と呼ばれる。このとき大坂幼年学校が廃校になった。翌12年には名古屋幼年学校、13年には仙台幼年学校がそれぞれ廃校になった。37期(卒業生302名)在学中の大正14年4月、宇垣軍縮といわれる第二次軍縮で13、15,17、18師団が廃止され3万3千人が整理された。このとき余った将校を配属将校として中等学校以上の諸学校に派遣した。学校教練終了の証明で幹部候補生の受験資格とした、この制度により大量の軍隊下級幹部の補充が容易となり大陸軍の基礎となった。この期から大正9年の文部省令の改正により中学4年終了で高等学校に受験できるようになったので陸士も受験できるようにした。軍の人材確保のためである(桑原嶽著「市谷ヶ台に学んだ人々」文京出版を主として参考にする)。
 海軍兵学校場合を見てみる。大正時代、海軍兵学校で学び、卒業した海軍士官は大正2年12月、卒業の118名の41期から大正15年3月卒業の68名の54期(53期の卒業生は62名。軍縮の関係である)まで1993名を数える。場所は広島江田島。教育期間3年である。建軍以来の伝統は少数数精鋭主義で「人造り」であった。幾多の名将、勇将を生んだ。大東亜戦争には司令、司令官、参謀長、艦長として活躍した。戦い我に利あらず、海兵出身者の犠牲者は世界戦史上、類を見ない高率に上った。艦長(戦艦、空母。巡洋艦)の戦死35名(全体39名)、駆逐艦艦長33人(全体36名)、潜水艦艦長28人(全体92名)戦犯に問われ刑死したもの16人(全体29名)であった。自決者は12名(全体22名)に及ぶ。41期に沖縄方面根拠地司令は大田実少将がいる。陸戦の最高権威であった。玉砕の1週間前に打電された「沖縄県民かく戦へり。県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを」の文章は今なお心に残る。それから46年後の1991年(平成3年)3月、湾岸戦争後、湾岸の機雷掃海のため日本から掃海艇を出すことになった。この派遣部隊指揮官に選ばれたのが大田実少将の遺児、落合o1等佐であった。補給艦を含めて6隻・551名をひきつれて立派に任務を果たした。しかも他国の海軍からその軍律の正しさを称賛された。海軍の伝統はいまなお生きている。硫黄島の海軍の最高指揮官は第27航空戦隊司令官市丸利之助少将であった。栗林中将とともに玉砕した。豪胆な武人であり、部下からも慕われた木村昌福少将はキスカ撤退作戦を成功させた。当時第一水雷戦隊司令官であった。11隻の駆逐艦、軽巡2隻、海防艦1隻、給由艦1隻が米軍の包囲網を破って5千2百人の律海軍守備隊を救出した。昭和18年8月1日のことである。撤退を知らない米軍は無人のキスカ島に7月30日から砲撃を開始した。8月中旬上陸して見たものは2頭の犬だけであったと戦記は記す。第26航空戦隊司令官有馬正文少将(43期)は昭和19年10月比島決戦が開始されるや、自ら攻撃機に搭乗敵の機動部隊に突入、神風特攻隊の先駆となり散った。第4駆逐隊司令としてソロモンの海で幾度かの死線を超えた有賀幸作大佐(45期)は戦艦、「大和」の5代目の艦長として沖縄特攻作戦に出撃、東支那海に沈んだ。吉田満著「戦艦大和の最後」には「ゴリラノ愛称ヲ以テ全将兵ヨリ敬愛セラレル」と記す(後藤新八郎著「海軍兵学校出身者の戦暦」原書房を参考にする)。
 日本だけが侵略国家ではない。アメリカもイギリスもフランスもドイツも自国の発展のために他国に侵攻した。その国々の人たちは自分の国を侵略国家だと悪しざまには言わない。国のために命を捧げた人々を敬愛し顕彰している。日本では識者といわれる人たちが日本を悪しざまにいう。奇妙な現象である。所詮、敗軍の将は兵を語るものではないにしても、勇将、名将は機会あるごとに顕彰すべきであると思う。