〔連載小説〕
VIVA 70歳!
さいとう
きたみ著
第三章 (つづき)
春介:その3
アメリカの大学、大学院を卒えていた大学教授の父が交換教授としてシカゴ大学の客員教授に招かれていた。占領政策のひとつであったろう。兄たちは父母とともに渡航したが小学生である春介をどこの学校に入れるか両親が迷い、結局一般の小学校に定めるまで少しの準備期間を要し春介だけが半年遅れの渡米であった。当時接収されていた氷川丸に乗りシアトルまで14日間の海の旅であった。横浜の港には父の弟であるやはり大学の教授であった叔父夫婦が見送りに来た。何となく冷たいこの叔父に春介はなついていなかったが、いよいよ見送りの人に下船しなければならない合図があった時、その叔父が春介をきつく抱きしめ、眼鏡の奥には涙が見えた。春介はとまどいもし驚きもした。もしかすると子供一人の渡米というのは大変なことなのかも知れないと、あらためて気がついたほどだ。
しかし何ごともなく春介はシカゴに無事着いたのだった。第一、出航直後の夕食に目玉焼き付きのステーキが出たことに一驚した。当時、おおかたの家がそうであったように目玉焼きとは名ばかりで一つ目焼きを兄たちと少しずつ分けたもので、それすら年に何回かの特別な日であった。翌朝の食事にまたまた驚かされる。オレンジジュースとミルクが別々の大きなグラスで供され、春介はほとんど夢見心地であった。シアトルに着くとアメリカ人の船員の一人が大陸横断バスの停車場までついて来てくれ、この子は英語ができない一人旅なのだということを言ったのだと思う。乗客の一員だった中年婦人がすぐに手を挙げ、隣の席に坐らせてくれ、何くれとなく親切にしてくれた。春介は4日間かかるシアトルからシカゴまでのバス旅行の間、バス停に近いホテルのクーポン券を持っていたのだが、それを使うこともなく最初の婦人が自宅に泊めてくれた上、翌朝次の乗客に彼の世話を頼むというように、まるでリレーのバトンのように次々と親切な人たちの世話になったのだった。太平洋戦争後2年しか経っていないとき、旧敵国日本の子供に何故このように親切にしてくれたのか、今でも春介は不思議に思う。国と国が戦っても市民と市民が争っていたのではないとしても、日本人の被害の何分の一でしかないにしても数百万人のアメリカ人が日本軍によって殺されていたことも事実なのだから、このアメリカにおける初体験がその後の春介の対アメリカ観をやや特殊なものとする。学生時代の安保闘争中の多くはアメリカ留学中だったが、その前後のいわゆる営業左翼全盛の時代の中で日本人の反米的言動に四六時中対することとなった。彼らの言い分はすじが通っているものもあり、頭では頷けるのにどこか心の隅での迷いがあった。馬鹿ばかしいほど大きなアメリカという国と本気で勝てると思って戦争をした日本も日本だが、またまたあの巨大な国をアメリカというたった一つの呼称で単純に律してしまって良いのだろうか。春介はいつとはなくその後も延々と繰り返される反米思想を説く人々や反米感情の持ち主に対して反応する言葉を用意するようになっていた。アメリカを一つの国、国家として考えるから腹が立つのでしょう。
あれは神様の不公平で何故か飛びぬけて世界一豊かだし、世界中のほとんどの人種の集合体です。アメリカを一つの国家として見るのではなく人類の大きな実験場として考えてみたらどうでしょう。言っている自分自身もさして明確な論理の上に立っているとは思ってはいないが、ある種の真実があるようにも思う。例えばアイルランドの悲惨な内戦やポーランドの連帯の出現などが伝えられる時、それらの国々に在住している本国の人口に匹敵する同国出身のアメリカ市民たちが存在するという今日、アメリカにおいては僅かの同胞市民しか持たぬ日本人には完全に理解できるものではないと思うのだ。
アメリカを好ましく思っていない日本人の中にはアメリカ滞在中の食事の不味さを指摘する人が意外に多い。あんな不味い食事に満足している連中に人間らしい言動を要求すること自体が無理なのだと切り捨てる人々もいる。これはやや的を射てる面もあり、いわゆる町中の大衆食堂などでは一口食べて辟易とするものが多いのも事実だ。しかし世界中の大使館が終結しているワシントンDCには、各国それぞれのかなり優れた料理を出すレストランが多数存在する。外交官同士の様ざまなパーティーや会食会が多い首都では、やはり自らの国が主催する折には自らの誇る料理を出すのが自然で、それぞれの国々が自国料理の美味しいものを出すレストランを応援し、育てることになる。また、ニューヨークのような大都会では母国の味に懐かしみや誇りを持つ市民たちが育てた各国の味にうるさいレストランもある。勿論一般的にそういう美味しいレストランは料金が高い。日本人が誇る日本料理だっておおむね旨い店は高価である。日本でも一般サラリーマンが日常的に利用する食堂は必ずしも旨いものを出すとは限らない。焼き魚定食とか肉じゃが定食などが、ぬるい味噌汁と沢庵二切れなどとともにプラスチックの食器で出されたりすると、これを喜んで食べる外国人がどのくらいいるのだろうかと思うこともしばしばだ。アメリカ人たちがアメリカ料理の不味さを指摘された時、往々にして抗弁するのにアメリカの朝食は世界一だというのがある。半ば冗談なのであるが毎朝ちがうメニューの朝食を食べ続けてもアメリカの朝食を食べ尽くすのに100年はかかるというものだ。コーヒーかティーかに始まりジュースもオレンジ、グレープフルーツ、パイナップル、トマトなどが選べるし、玉子料理もごく普通にフライド、ボイルド、スクランブルなどを選べるし加えて各種オムレツがある。それにシリアル、ごく普通のものからオールブランあり、果実入りあり、チョコレート入りあり、肉類もハム、ベーコン、ソーセージ、ハッシュドビーフなどなど、パンも通常のトースト以外にマフィン、パンケーキ、クロワッサン、フレンチトースト、ぐらいは何処ででも出す。加えてサラダ、これも種類が多い。これら全部を順列組み合わせの如く計算すると確かに数万種類になることは間違いない。
春介もアメリカで朝食をとる時、いつも思い出すのは小学校四年生の夏、氷川丸で出された最初の朝食、キラキラと輝くようなジュースとミルクのグラスであり、玉子やハムの皿である。
(つづく)
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