2009年(平成21年)3月10日号

No.425

銀座一丁目新聞

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追悼録(341)

80過ぎても「生きる意味」を求めた友人の死

 雨の降る寒い日であった。千葉市での友人の「通夜」に出た(2月28日・典礼会館)。なくなった石原登君は川崎製鉄の設計部長を最後に定年退職したので参列者は川崎製鉄の関係者が少なくなかった。石原君とは大連2中の同級生である。敗戦時、異郷の地・大連で迎えた日本人は引き揚げの間、それなりに苦労を強いられた。また日本で復学しても親兄弟が無一文で帰国したから苦学を余儀なくされた。石原君はその苦難を大連2中健児の「負けじ魂」と「みどりに澄める天つ空の広きを己の心として」で切り抜けた。その一生は一編のドラマであるといっていい。
 昭和20年8月15日の敗戦の時、石原君は旅順工大本科1年生であった。8月20日過ぎにソ連の飛行艇が旅順港に入ってきた。9月初めには旅順を捨て2人の姉達がいる大連へ。姉たちのご主人は二人とも出征しており、当時、それぞれ0歳と1歳の乳飲み子を抱えて男手は石原君だけであった。夜は隣組のおじさん達とバケツをたたいてソ連兵撃退であった。食うために大連駅前通リでサージの生地や絹の和服生地の立ち売りを始める。結構高く売れた。したたかな中国人は石原君から買った生地を倍の値段で売っていたという。20年の暮れ北満から帰った義兄が幾久屋の2階のショッピングケースを3本借りることに成功、ここで商売を始めた。「黒い瞳」の歌なしのコロンビア版が1枚千元で売れた。中華どんぶりが20元の値段であった。どこかの領事館にあった電畜がロシアの将校に3万元で売れたこともある。隣り合わせの売り場に3人の女性がいた。その一人の娘さんに淡い恋心を抱き、一緒に歩く仲になって恋文まで書いたがどうしても渡せなかったという。まさに「アカシアの先に1945年の恋い」である。
 昭和22年春、郷里香川へ引き揚げたあと、大阪大学の機械科へ転入学する。学校に行ったのは3学期に2週間ほどであった。試験も旅順工大から一緒に機械科に入った友人からノートを借りて一夜漬けの勉強であった。2年生になっても四国と大阪、神戸をヤミ米をかついで週1回の往復、お蔭で関西汽船の船員と仲良くなり何かと便宜を図ってくれた。
 このほか米軍払い下げのフォークリフトをスケッチして図面化する仕事や単価10円でおろして貰った石けんを角帽姿で梅田の阪急百貨店正面で3ヶ一山100円で売るアルバイトなどをする。後は真面目に勉強、無事に卒業する。川崎製鉄には30年余り務め、溶鉱炉やコークス炉の設計をコツコツとこなした。ここ10年ほど年2回発行する大連2中17回生の会報「となかい」の編集・発送を私たちと担当した。その作業が終わると、越中島の居酒屋でみんなと雑談するのが楽しみであった。昨年11月26日東京・大崎のホテルで開かれた忘年会には顔を見せず、みんなでその体調を案じたものであった。通夜の席で導師を務めた浄願寺の住職さんが思いがけない話をした。4,5年前石原君がふらりと来て、ここに時々法話を聞きに来て良いですかと聞いた。「どうぞ」というと、それから時々来られました。別に動機を尋ねたことはないが、「生きることとはどういうことか」を考えられていたように思うということであった。初めて知る石原君の一面である。だが分かるような気もする。大正生まれは真面目な男が多い。享年83歳。心から冥福を祈る。
 

(柳 路夫)