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安全地帯(242)
−信濃 太郎−
民衆が爆発する(大正精神史・政治編C)
大正の民衆が爆発する。為政者には予想外であった。それは明治38年9月の日比谷公園騒擾事件の再来であった。大正3年2月10日停会中の議会が再開されたが、数万の民衆が議会を取り囲んだ。この不穏な形勢に山本権兵衛は10日早朝、西園寺公望を訪ね事態収拾のための決起を促すとともに、桂太郎首相を訪ねその専横をいさめ、辞職を勧告した、桂は西園寺が何とかしてくれるであろうという甘い考えからその勧告を退けた。さらに10日から3日間の停会を奏請した。この停会が院外に伝わると群衆は激昂、一部は門内に入った。このため警官隊と衝突、双方に負傷者がでた。現場を追われた群衆はそのまま街頭に流れ出た。千名内外の集団となって街を練り歩き、途中から参加する民衆もあって各数千の集団となって次第に凶暴化し、政府系とみられていた都新聞を襲い、投石して窓ガラスを割り、物置に放火,通り掛った政府系代議士の人力車を転覆、殴打した。これを阻止しようとした警官隊を襲い、負傷させるなどの暴行をいたるところで行い、手がつけられなくなった。騒乱は麹町、日本橋、京橋、神田、芝、本郷、下谷、浅草に及び、大和、国民、報知、読売、二六など政府系各新聞社が襲われ被害を受けた。投石による窓ガラスを割られた電車は26台に及ぶ。13の警察署が襲われ、多数の窓ガラスと机、いすが破壊された。52の交番が焼かれ24の交番が破壊された。負傷者は警官側81名、暴徒側51名その他6名を数える。
日比谷公園騒擾事件の時には民衆の死者13人、負傷者558人を出し、警官隊は471人が負傷した。今回は民衆より警官隊の方に負傷者が多いのは、日比谷事件では警官隊が抜刀して世の非難を受けたため今回はできる限り武器の使用を控えたためであった。さらに言えば、この事件の原因は桂首相が門閥の権威を背景に、非立憲的かつ強引な行動をとったことに対する民衆の怒りが爆発したものであった。この内閣の内務大臣、大浦兼武が薩摩出身の閥族であり、警視総監、川上親晴(20代)が大浦内相の後輩であり、警視庁は桂内閣の手先となって国民の正しい叫びを弾圧したと目されたためであると、当時の各新聞がこぞって報道した(「警視庁史大正編」)。軍隊も出動して11日午前2時ごろ市内は平静に戻った。ついに11日桂内閣は総辞職した。53日の短命内閣であった。
政治家や新聞記者の指導があったにせよ、民衆が12月半ばから1月にかけて全国各地で県民大会、市民大会に積極的に参加して気勢を上げた。1月12日に開かれた大阪の「憲政擁護国民大会」では参加者は1万人を超えたほどであった。このように民衆が初めて政治権力を打倒したことの意義は深い。それとともに明治維新後、政府弾圧のもとに辛吟続けてきた自由民権、民本主義の流れが民衆暴動の点火役を果たしたといえる。
実は桂内閣は総辞職ではなく解散を決めていた。各大臣もそのつもりでいた。議長の大岡育三が桂首相に卓をたたいて進言した。「今日は衆議院議長として申し上げるのではない。閣下の同郷(山口)から選ばれている衆院議員として申し上げるが今この議院の周囲は激昂した民衆に取り囲まれている。政府がここで解散するということになれば、この民衆は決して血を見ざればやむものではありません。場合によれば、これが端緒となって内乱になるかもわからない。だから切に閣下の考慮を願う」一人この席に立ち会った若槻礼次郎は「桂公に対する毀誉は別として、一国の宰相として大きな事業をし遂げられた人であることはだれも疑う者はあるまい。その桂公が、組閣後日ならずしてこんな羽目に陥り退陣を余儀なくされたことについては、口にださなかったが胸中万斛の涙をのまれたことであろう」とその胸中を慮っている(前掲若槻礼次郎著書より)。山本権兵衛の辞職勧告をはねつけた桂首相が同じ山口出身の大岡育三の同じ辞職の進言を聞きいれたのはなぜか。後任の海軍大臣の選任を巡って嫌がらせを受けた恨みもあろうが、人間同士の付き合いは理屈ではない。えてして感情に左右され勝ちである。ときには歴史を大きく変えてしまう。いつの時代でも首相の解散権の行使は難しい。
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