硫黄島で戦死した第109師団師団長、栗林忠道中将(陸士26期)の辞世の和歌は3首ある。栗林中将は3月17日(昭和20年)最後の総攻撃を掛けるに当たり大本営に決別の電報を打った。その電文の末尾に「終りに左記駄作御笑覧に供す」とあった。そのうちの1首である。
国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
新聞発表では「散るぞ悲しき」が「散るぞ口惜し」と変えられたと梯久美子著「散るぞ悲しき」―硫黄島総指揮官・栗林忠道ーで指摘する。著者は書く「国のために死んでいく兵士を、栗林は『悲しき』とうたった。それは、率直にして痛切な発露であったに違いない。しかし国運を賭けた戦争のさなかにあっては許されないことであったのである」。果たしてどうか。大本営報道部の改悪のような気がする。『悲しき』の方が訴える力がはるかに強い。さらに決別電文も変えられたという。
梯さんが栗林中将に興味を持ったのは家族へ送った手紙の一節であった。「家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です。・・・」(昭和19年6月25日妻・義井宛て)2万余の兵を束ねる最高指揮官が「遺書」の中で、お勝手の隙間風を気にしているのである。このとき栗林は52歳。出征直前には天皇に拝謁して直接激励されるという名誉に浴している。その彼が最後の心残りとして記したのが、留守宅の台所のことだったのであると著者は驚く。さすが女性だと思う。戦争中陸士に学び、予科時代の校長牧野四郎中将(レイテで戦死)は栗林中将と同期生であり、栗林中将が水際作戦から出血持久作戦に変更、島嶼戦闘では米軍に日本軍より多い犠牲者を出さしめた指揮官として畏敬の念を持っていた。この本で新聞記者を志望したこともあるのを知り、ますます身近な存在となった。毎日新聞時代一緒に仕事をした写真部の石井周治記者の話も出てくる。栗林中将が留守近衛第二師団長時代(昭和18年6月10日から昭和19年4月5日)に面識があり、初年兵として硫黄島にきていた石井記者の顔を見るとちゃんと名前を覚えており「石井君」と呼んだと言う。石井君は捕虜となりサンフランシスコの収容所にいれられるが硫黄島で捕虜になったと聞いて監視員が一目置いたそうだ。彼我の戦死・傷者は日本軍の戦死者約1万9900名、生還者1033名、米軍の戦死者6821名、戦傷者21865名であった(近代日本戦争史第4編・同台経済懇談会)。
(柳 路夫) |