2005年(平成17年)11月10日号

No.305

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追悼録(220)

「もののふの思い留めて木の葉散る」

  電車の中でよく俳句を作る。つい最近「もののふの思い留めて木の葉散る」の句が出来た。実は陸軍予科士官学校の私たち区隊有志の間で戦後60年、人生80年を迎えて何か書き残そうという話になっている。軍人を志したが敗戦で挫折、戦後日本の再建のために様々の分野で活躍したと自負しおている。40人いた区隊の同期生も22人に減った。私たちは敗色が見え始めた昭和18年4月に入校、1年後、航空兵は卒業、操縦訓練を空襲の激しい内地を避けて満州でする状況で、卒業直前敗戦を迎えた。地上兵科は半年送れて卒業、長期演習の名目で長野県下に疎開した。歩兵の私は西冨士演習場で終戦の詔勅を聞いた。常に死を考え、猛訓練に堪えた体と精神力は戦後のそれぞれの職場で役立った。
 昭和改元の年から敗戦期までの日本人の心の歴史を「昭和精神史」(文春文庫)「同・戦後編」と名付けて世に問うた桶谷秀昭さんはその著書の中でいう。「時勢が変り、世を支配する通念が変っても、いかにしても訂正の効かない思念や感情といふものがある。訂正もいひわけも効かないゆゑに間違っていないのである」その思念や感情を率直に残したいと考えている。そんな思いにかられている時「留魂録」(りゆうこんろく)という言葉が浮かんだ。吉田松蔭の遺書である。安政6年(1859年)10月26日江戸小伝馬町の牢内で書き上げた。その翌日死刑の判決を受け即日処刑された。享年30歳であった。その冒頭の和歌は「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」である。松蔭の魂は確かにこの世に留まった。多くの傑物を世に送った。人の魂が事をなす。すごいことだと思う。松蔭の死生観がすばらしい。高杉晋作に「男子の死すべきところは」と質問されて「人間というものは、生死を度外視しては、要するになすべきをなす心構えこそ大切なのだ」と答えている(古川薫著「吉田松蔭「留魂録」講談社学術文庫)留魂録では「今日死を決するの安心は四時の順環に於いて得る所あり」と述べている。人間はその思いを達成する場合もあればその思いを果たさない場合もある。残された事績ではなく遂げられなかった思いもふくめて綴られたのが桶谷さんの「昭和精神史」である。それにあやかって私たちの「区隊精神史」を作りたいと密かなたくらみを抱いている。

(柳 路夫)

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