2005年(平成17年)11月10日号

No.305

銀座一丁目新聞

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自省抄(46)

池上三重子

   10月11日(旧暦9月9日)火曜日

 今日は重陽の節句。もっとも、季節の行事はほとんどが新暦で行われるようになって久しいけれど、私には旧暦のほうがなじみぶかい。
「生家の村のお祭りの日であったが現在はどうであろうか」、と書いたところで咳。同時に腰痛、がっくりする。どうやら痛みは薄れたようだと、軽くなった気分でいたのだが、やっぱりか。ビリッとひびく痛みが、腰の異常が好転していないことを宣告する。
 ああ、と溜息が即応する。
 明日で一週間。先週の入浴後の着衣のさいの発症は悪夢。あっ、と口漏れた瞬間の悲鳴を、介護士の耳は聞きとっていなかったらしい。「主任さんに伝えておきます」という他の介護士に、私が直接言うからと言ってはみたものの、その気になれなかった。言ってどうなる? 告げてどうなる? 思えば若い一人の介護者の職を奪う結果を招くかもしれないと思えば噤むだけよ。
 心を転じよう。
 冒頭に戻そう。
 秋のお祭りは栗の節句ともよばれた。村の氏神様は村社格だったようで宮居は荘厳な雰囲気をかもしていた。門の守衛不動明王のいかつい形相、神前の雅楽演奏、神官の破魔弓と破魔が立てるビンビンの厄払いの行事……小学高学年生は先生に引率されて式典に参列し、神殿で奏される雅楽を低頭して聞いた。耳なれぬ曲に男の子たちの列からの忍び笑いがさざ波となり、引率の担任がシッシッと声をひそめて制して歩く……。
 村の一本道に、南から北へ進む児童たちの鼻をうごめかせる、いい匂いが漂う。おこわを蒸すあり、煮物さまざまあり……。燃料もふだんの麦藁や藁のほかに「ガラくど」からのガラの臭いや堅炭を奮発して熾す七輪からの臭いなど、年一度の秋祭り気分はわらべらをはしゃがせ、日頃無口の者をお喋りに変える。
 一年に三回、お正月の「おせち」と夏の「よど」、秋の「お祭り」が親類縁者を招待する習慣で、子供にはお小遣や下駄やポックリのお土産が楽しみ。
 重陽の節句は菊花の節句よ。重箱につめたおこわの上に菊の小枝をのせ、蓋の上には母の手折りのお熨斗とゴマ塩包。お届けは本家と母の生家の木藪家へ。お使いは私。末っ子の悲哀と不満が交錯していた。
 すべては過去形となった風習だが、思い出はあたたかい。
  ほろほろと鳴く山鳥の声きけば
  父かとぞおもふ母かとぞおもふ
 作者は憶えない。いにしえの法師ではなかったろうか。
 ここでも野鳩か管理人さんの飼鳩かホッホウホッホウと鳴く声が聞こえる。何とはなしに先記の和歌を連想して父母兄弟を懐かしむ。
 先日、隆昭夫妻来室のおりに柿の実の枝生りと一口切りに剥いたのをもってきてくれた。井川の石垣の上、接木の柿の木は枯れてしまったらしいから、茣蓙蒸し小屋の傍の木のものではなかろうか。
 学校境のからたち垣も今はなく、紅葉の古木も地面をコンクリートにしたので衰え、切り倒したという。金柑子の木は? 金柑は? 白八重の花桃の木は? 語られる事があれば、ついで話のその程度がいい。昔なつかしの郷愁をやたらに出さぬがいい。老いの嗜みか。

 午後五時十五分。
 鵲の声も烏のカアもガアも鳩の声もない。
 法師蝉も今年は二、三声、季を代表してよろこばせてくれただけだが、蝉はよく鳴いてくれたなあ。ワーシワシワシと降るか湧くか天地を満たして生命の賛歌で歓ばせてくれた。 おや?
 やっぱり鵲の声だ。
 キジャキジャ……二声、場所を変えて聞こえる。もう鳴かないかな……カーテンを開けてもらった空は高く澄んで美しい。美しい秋……明るい秋……澄み透る秋……空の高さを映して正面の白壁が碧澄む季節が来ていたのか。
 賜物。あめつちの贈り物よ。
 おや、またキジャキジャさん達の幾つもの声は塒へ急ぐのか……キキッキキッと私の耳に届く。
 自然がくれる黄昏の鳥の声。
 明日も目覚めよ。
 目覚めて生を謳歌せよ。
 キキッキキッ……何処で鳴いているのかな。おや、また鳴いた。近々の声は何処……おや今度はシュルン? あれは何鳥?
 身動かねば穏やかな腰痛、どうぞ快方へむかってほしい。が、望めそうもないなあ。
 佳き日の夕暮れ。
 母上よ!
 ペンを擱いてお目々を消毒ガーゼで拭きましょう。
 夢見にお待ちしますね。

 妙子先生の受難はもっともっときつい。
 お辛かろう。
 アイタイ、とお書きの心身を思うと辛い。先生はもっともっとお辛いのだ。がんばって先輩!



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