大連2中の17回生の敗戦の記録を前回の茶説(8月10日号)に続いて掲載する。軍隊で入営中、満州で敗戦を迎えた同級生が上官からどんな指示を受け、どのような機知を働かして父母の居る大連までたどり着いたか、その苦難を辻武治君(平成16年9月23日死去)の手記から辿る。
ソ連軍が侵攻した8月9日、辻君は奉天郊外・北陵近くに居た満州549部隊で通信兵として初年兵教育を受けていた。運命の日8月15日、帝国の敗戦をどうような形で聞かされたかの記憶は定かでない。夕食時に内務班長から伝えられたように思うが・・・という。記録によれば関東軍は満州南部の山岳地帯を根拠地とする対ソ・対米作戦を準備中、8月9日ソ連軍が満ソ国境を突破してきた。在満の兵力は66万4000名を数えたが精兵兵団を南方へ抽出されて、頑強な抵抗が出来ずソ連軍の満州内への進出を許した。
9月に入ってまもなくの朝、中隊全員に集合が掛かった。中隊長はいった「我々は明日、武装解除を受けることになった。ソ連軍の責任者は『軍人を優先して日本に返す』といっているが、本官はこれを信じない。従ってこの奉天近辺に親・兄弟の居る者は帰郷を許す。この者は名簿から削除するから直ちに申し出よ。名簿提出後はソ連軍から脱走者とみなされる」
辻君は「兄が市内にいます」と申し出た。とにかく母の居る大連に帰るのだ。土地勘はあるし、懇意な人も居る。迷いはなかった。中隊では20数人が名乗り上げたようで、辻君の小隊からは初年兵5名が行動をともにする。渡された『除隊証明書』は8月17日付けで階級は2等兵であった。この中隊長の計らいは見事なものである。ソ連軍の「日本に帰国させる」言葉を信用してシベリアに抑留された部隊が多かったことを考えれば適切な指示であった。
戦後、西日本新聞で事業部長をすることになる辻君の才覚は抜群であった。近所の満人農家から荷馬車をやとった。中国語は大連2中で5年間学んでいる。日常会話にはことかかない。前金と成功報酬に米1表の条件で話がついた。市内に入るのには難関がひとつある。共産党の巣窟、北興街を通過せねばならない。強行突破を決意する。
村の入り口には多数の民兵が銃を手にして出入りを監視している。米俵、乾パン、缶詰など班長の好意の物資を積んだ荷車を軍服姿で走らせる辻君らをソ連軍の使役に出ている捕虜と見たのか黙って通した。辻君は奉天神社の近くのHさん宅に転がり込んだ。先ずは情報収集。無法状態ながら街頭での商売は活発、満人に混じって日本人の姿もあった。満鉄の現場員の作業服やロシア語と中国語併記の腕章まで売られていた。辻君は早速買い求めて着込んだ。ソ連軍が接収品の輸送力確保のために鉄道従業員を大切にしていると聞いたからである。奉天駅で聞くと、ダイヤは乱れ放題で、列車は毎晩のように途中で止められて暴徒が襲い日本人はみぐるみはがされ、中にはどこかにつれてゆかれるものもあるという。次第に焦りがでてくる。ある日、駅に向う途中、何気なく眺めていた店先に、ピラミット型に積み上げて月餅を大声で売っているのに気がついた。『そうだ。中秋だ』と直感した。月餅は中秋節のお供えに欠かせない。旧暦の8月15日で春節・端午節とともに年間の三大節季で「この日は平穏であろう」
と思った。決行はこの日しかない。この秋の中秋節は9月19日である。この日辻君は弁当だけは十分用意して満鉄の服を着て腕章を巻いて昼過ぎに奉天駅に赴いた。駅はいつもより静かであった。駅員に訊ね訊ね大連行き列車を探し当てた。列車は途中で何度となく停車したが沙河口駅についたのは実に25時間後であった。内地へ上陸したのはそれから二冬を越した昭和22年3月7日であった。辻君の21年間の「満州時代」が終わった。まもなく彼の一周忌を迎える。
(柳 路夫) |