7月22日(旧暦6月17日)金曜日 快晴
蝉が一生懸命啼いている。一生懸命のこの声は命の声魂、私もいっしようけんめい精魂こめて聴いている。心澄まし、耳すまし聞き入る自身のすがたを見る。まざまざと、そのひたすらごころに満悦しつつ見入る……。
蝉よ! 地上生活わずかでこの世から去っていく、儚くも羨ましい生命の短さよ。
西行法師は歌に詠む。
籬(ませ)に咲く花にむつれて飛ぶ蝶の
羨しくもはかなかりけり
命ながらえて生きることは生物の自然のねがいであろうし、人間殆どの希望だろうが、私は三十代の初めから命召したまえの憧憬一路。不平や不満や不快などに当たれば即、奔流あふれ出そうな心よ。西行は厭離穢土の出離者ごころだが私、命もろとものさよならごころ。しかし三十代消滅はおろか四十代、五十代それぞれの私の歴程の跡を、ねじ花・文字摺草のように捩じれつつ半世紀、恕されぬままに今日只今の存命情況下である。
他に求める心が強く、それを恕さぬ私の抑止、抑制のため生が辛くなり厭になるのだ。 先日も食事中の一件。食事がすみ、デザートはキウイ三切れ。食介者が二切れ目を落とし、気にもとめぬ風に三切れ目を口に運ぼうとした。私は言った。「落としたでしょう。そんなときは、ごめんなさいと言うのが常識じゃない」
キウイはそれほど好きではない。食べても食べなくても、どうでもいい一切れ。しかし食介すべき一品を床に落としてすましていられる図太さ、不正直さが嫌いである。落ちた、いや、箸で抓んで落としたのを仰臥の目に留まらぬと素知らぬふりをするのが、厭で厭でたまらないのだ。
ごめんなさいと彼女が謝れば、「いい」の重ね四音の返事となるのは必定。その必定に至らせないのはゴマ化し・いい加減の仕事! と私は受け取るのである。これだから、生得らしいこのたち故、生き辛いのは当たりまえよ……。日々の介護を心底感謝しつつも、それを仕事とする人の心ごころの差は、私に一喜一憂の味を沁みさせていく。
ワーシワーシワシワシワシワシジー
蝉よ
熊蝉よ
啼け啼け熊蝉よ
天地の間を埋めつくす熾んな謳声よ
溢れる青春の熱気を朱夏にゆずりわたすと
啼くのか蝉よ
昨夜は十六夜満の月。
あかあかや十六夜今宵満月の
光(かげ)は羊水われは愛児(めぐしご)
わが母のなべての母のその母の
生まれましたる宮やこの月
おのずから涙こぼるる常臥の
身にも賜ふなり土用望月の空
三夜つづけて月の饗宴の招待客の気分にすごすことができた。天の遺産よ。人間の存続する限り心あらば享受をゆるされよ永劫の財宝!
昼は蝉。夜は月。忝ない神の恵与よ。
有情彩々の私も、今この季節ならではの天然自然の賜物をいただいているのだ。私の思考を、そのエネルギーを感謝しよう。下さいとおねがいして得たものではない、下さったのだ。唯々見守るだけの天(神)(仏)が、与えられたものを賜物と受けて、一生懸命、生きたくもない命を引っぱりつつ押しつつ時々刻々生きている我なる私を、軌道にのせて下さっている。純なるものの導くまま、誘うままの生命私なのだ。
「実践人」主宰の故・森信三先生を偲う。懐かしい仰ぐ人物として想う。
昔の私は、お説教はいらない聴きたくない、一人ひとりの心ごころで自由に生きるのが真の生だと思っていた。が、その表面の下に、聴きたい知りたい解りたい気が限りない層をなしていたのだ。
今の私は燃えている。熱く謐かな底知れぬ淵のくらやみから、泉のように湧く冽らかな聴聞の心、気らしきものを感じている。燃える火のような物を煮るに必要なものが、どれだけでもいいよ、欲しいだけ上げるよ、遠慮なく言えよと声してくれているような……
法政大学の王敏教授がお書きになった新聞記事のお陰で、私は詩人・黄瀛(こうえい)先生を知った。先生は中国重慶で闘病中という。九十八歳の高齢は、軍人として鍛練された頑健そうな外容にかかわらず、私に不安を抱かせる。
どうしてこうも惹かれるのだろうか。まるで憑きものにつかれたような心様である。でもこういう私だから、こんな状態でも生きてきたのだ。芸は身を助けるというが、私に芸はない。この意と気と、天と地と人とによって今ここに在ることができているのだ。
黄瀛先生と、勝手に先生付けで呼ばずにいられないのはなぜ?
母上が喜智という日本人だから? 目下躍進はなはだしい中国が父上の祖国だから?
有名な詩人だから? 宮沢賢治を知るから?
いやいやそうではない。条件は無用。高齢九十八歳のうつそみを故郷重慶で闘病中、それだけだ。尤も来歴の重みは大きい。就中、投獄の理不尽さは思うだに絶句よ。
私の心が「自省録」の著者、古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスを得たのは、神谷美恵子先生の『生き甲斐について』からだった。今また、生ある闘病中の黄瀛先生を知ることができたのだ。
母上よ!
今から畠山洋子ちゃん拝受の、京都史跡めぐりの図解に目を通し、連想される古都の歴史勉強とまいりましょう。但し、回顧の浅学のなかで。
佳きかな生! ありがたきかな命!
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