1998年(平成10年)5月1日(旬刊)

No.38

銀座一丁目新聞

 

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ヒマラヤの虹(9)

峰森友人 作

 慶太がまだうつらうつらしていると、開けっ放しになっていた廊下側の小さな窓越しに、

 「まだおやすみでしょうか」

 と、遠慮がちな百合の声がした。

 「いや、ほぼ起きてます」

 慶太は少々寝ぼけた返事をした。

 「すみません、起こしちゃって。あの、虹が出ているんです、マチャプチャレの上に」

 慶太ははっとして飛び起きると、カメラを持って廊下に出た。二階の廊下の手すりから身を乗り出して見ると、青い空にマチャプチャレがすっと立ち上がっている。その胸のあたりに残っていた雲もみるみる飛散していく。それにつれて、マチャプチャレの背丈が空にぐんぐん伸びていくようにすら見える。そして淡い虹がマチャプチャレの南東から北東にかけて巨大な光輪となってかかっていた。

 「すみません、お休みだったのに。でもすぐ消えてしまいそうですので。さっきはもっとはっきりした色だったんですよ。それで声をかけようかどうしようかと、虹を見ながらうろうろしていたんです」

 マチャプチャレは白い装いの中に所々黒い岩肌をとどめ、その足元の緑の山は十二単の裾のように幾重にも長く延びる。頭上にパステルカラーの光りの輪をいただいて聳然と立つマチャプチャレの姿はこれまで見たその山の美しさの中でも最高の美しさだった。慶太の脳裏に一瞬パラマウントだったか、ハリウッド映画の始まりのカバーシーンが思い出された。テラスには再び人が集まり、ヒマラヤの虹に見入った。だが至上の美ははかなさこそがその命であることを誇るかのように、眺める人々の惜しむ声の中で次第に空に解けて消えた。

 「ああ、何と言ったらいいんでしょう。美しさそのものがまるで生き物みたい。ネパールの自然って壮大で、それでいてとっても繊細なんですもの。ただ登山家のための国とばかり思っていたなんて、本当に恥ずかしい」

 百合は、自分の小さな胸の中に収めておくにはその感動は余りにもも大きいと言わんばかりだった。

 「すばらしい自然の財産を持っているスイスは世界一豊かな国、同じ財産を持ちながら、ネパールは世界で最も貧しい国。世の中は決して平等にはつくられていないんですね」

 百合はマチャプチャレの頂きにじっと目を向けたま呟いた。

 

 翌日タダパニという小さな村に着き、さらに次の日はネパールの国花としても有名なシャクナゲの林を抜けた。険しい山腹を十メートル以上もあるようなシャクナゲの大木が埋めている。二月末に始まる花のシーズンはもう末期だったが、それでも紫、深紅、茜色などとりどりの大輪の花が枝をしならせていた。

 やがて突然枯れた茅の原っぱに出た。ナラヤンが正面の丸い山を指差して言った。

 「あの丘が、ダウラギリやアンナプルナやマチャプチャレなど、中部ヒマラヤの山がすべて見渡せるプーンヒルです。明日の朝は、この下のゴレパニの村を四時半に出発してプーンヒルで朝日を見ましょう」

 

 慶太はヘッドランプを寝袋の中でつけて時計を見た。四時少し前だった。隣の部屋との仕切りの板壁のすき間から弱い光が漏れていた。百合のペンライトの明かりである。慶太は自分も目覚めたことを知らせるかのように、ベッドをきしませて伸びをすると、寝袋から勢いよく体を起こした。隣の身支度をする音も大きくなった。さすがに最初の朝のような息を詰めた緊張感はお互いになくなっている。小さな窓を通して冷気が忍び込んでくる。三千メートル近い高さでの宿泊だった。

 起きたばかりの体にプーンヒルへの約四百メートルの上りはきつかった。息が荒くなる。いつもは後に続く者の足取りに気を遣うディネスもこの朝ばかりは歩調をゆるめなかった。日の出までに十分余裕を持って頂上に着きたいという計算があるからだろう。やがてあたりがうっすらと明るくなり、霧が晴れていくのか、見通しがよくなった。下の方から何組ものパーティーが登って来る。ロッジを出て四十分。プーンヒルは背の低い枯れた茅以外ほとんど何もないヘルメットを伏せたような山だった。日本ならきっと兜山と名づけられていることだろう。中央に木で組んだ一段高い展望台が築かれている。

 空が色づき始めてまもなく、真っ赤な光がアンナプルナの主峰に当たり、ほとんど同時にその西方にあるダウラギリの岩峰にも当たって散った。プーンヒルの真北、切り立った巨大な岩塊のダウラギリは、肩のあたりから鋭い稜線を左右に伸ばしているが、それがあたかも大鷲が巨大な翼を広げているかのように見える。大鷲のあごから胸に当たる数千メートルの垂直の南壁は、まるで山の神々の館を守る城壁のようだ。朝日を受けた岩壁が茜色に染まった。すると黒々していた時の猛々しい表情が急に優しくなり、温かい体温を持つ柔らかい肌のようにも見えた。

 周囲の谷から吹き上げる風が頬に突き刺さる。百合はトレーナーの上に濃紺のセーターを着込み、その上に半透明のビニールの雨具の上着を着ていたが、その襟を立て、軍手をはめた手首をかばうように腕組みをして、アンナプルナ連峰やダウラギリ、その間にあるツクチェやニルギリ、それにマチャプチャレと、七千メートルから八千メートルを越すヒマラヤの峰々に見入っていた。刻々と表情を変える神々の棲み家にカメラを向けながらも、慶太は百合の横顔を観察した。小さく尖った鼻、遠望する時は必ずしばたたかせる長い睫の目、締まった唇。それは艶というより、冷たい吸引力を秘めた顔である。その心は何かに傷ついているようであるが、「東京の男」と言った以外はほとんど手がかりを与えていない。

 百合が突然慶太の方に振り向いた。雄大なヒマラヤの眺めに感動したのか、涙ぐんでいる。百合はその涙の目を慶太に向けて、

 「本当にご親切にしていただきまして、ありがとうございました」

 と言った。いきなりのことで、慶太は一瞬胸が詰まった。しかし百合は口元には笑みを浮かべて、言葉のない慶太を救うかのように続けた。

 「突然トレッキングに連れていってほしいなどと言い出したのですけど、私はどうなることか、まったく自信がありませんでした。体力的にもですが、実は精神的にもそうでしたの。いまだから言えるのですが、余りにも考えなければならないことが多くて、ひょっとして私はトレッキング中にバラバラに壊れてしまうのではないかって、とっても心配でした」

 潤んだ百合の目から、大粒の涙がひとつ頬を転がった。

 「でもそうなったら、佐竹さんにとんでもないご迷惑をかけてしまう・・・。だからまず精神的に、そして肉体的にもつぶれないようにと、私は毎朝自分にようく言い聞かせて、その日の行動を始めました。その私がどうにか壊れずに最後の日を迎えることができました。私、とってもうれしいんです。すばらしい山が見られて、いろいろお話しもさせていただいて・・・」

 百合が一言一言をかみしめるように話すのを聞いているうちに、慶太の胸は温かいもので満たされた。また一つ大粒の涙が転がり出て、百合の頬に流れた跡を残した。涙に濡れた百合の顔を見ているうちに、慶太は百合を胸の中に抱き寄せたい大きな衝動を覚えた。しかし百合の優しい表情は慶太にも理性を保たせる十分なほど品位も保ったものだった。慶太は百合の頬を伝う涙を人差し指で下から上へ掬うようにして拭った。

 「わたしには自慢出来るようなものが何もないばかりか、少々世捨て人になりつつあるので、現役のジャーナリストに役立つような話しが出来ず、申し訳ないと思っています」

 「いいえ、いっぱい考えさせられるお話しを聞かせていただきましたわ。国連はお月様というサウンドバイトもいただいたし.・・・」

 百合は楽しそうに慶太に流し目を送った。

 「私、このトレッキングで意識と体力の両方でまたちょっぴり自分が頼れる気持ちになりかけているんです。だから多分、もう少し何かできるんじゃないかという気がするんです」

 「何かって?」

 「それはまだ秘密・・・」

 百合はこう言うと、若い娘のように嬉しそうに肩をすくめた。何度か思い詰めた行動のそぶりを見せた百合だけに、その「何か」が慶太には気になった。しかし自分と数日間行動を共にした百合が、出会った時とは打って変わって、感情を素直に表わすまでに変身していることに慶太もまた言葉で言い表せない豊かな気分になっていた。

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