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小さな個人美術館の旅(34) 何必館・京都現代美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 何必館・京都現代美術館の館長、梶川芳友氏が村上華岳の「太子樹下禅那之図(たいしじゅかぜんなのず)」にめぐりあったのは、1962年、二十一歳の時だ。菩提樹の下で座禅を組む若き王子悉達太子の姿を描く、華岳五十一歳の作品だった。プラチナ泥で描かれた菩提樹のにぶい銀色の輝きをバックに浮かび上がる、理知的で、聡明で、一点のくもりもない太子の表情。古代朱と墨で描き金泥を刷いた衣の柔らかな線。死の前年の作で、華岳仏画中の傑作といわれるものだが、その頃はむろんそんなことは何も知らない。ただ憑かれたように、その前に釘づけにされ、動けなくなった。 貧しく育った氏は、小さい頃から美術の修行に出された。当時は東京の美術商のもとで働いていたが、自分の仕事や将来のことで悩み、人と相談するために京都の平安神宮の鳥居の前で持ち合わせをしていたのである。早くに着いてしまったため、時間つぶしに入った国立近代美術館京都分館での展覧会だった。「太子樹下禅那」は、そこに展示されていた「村上華岳の芸術」百数十点のうちの一つだったのである。それ以来、梶川氏のなかで何かが変わった。華岳作品を探し求め、「見せて下さい」と半ば気違いのようになって全国をかけ回った。 後年、画商として一人立ちしてから出会ったのが、華岳より二十年遅れて生まれた洋画家、山口薫だ。アトリエにも親しく出入りし、温雅ななかに厳しさを秘めた人柄と、詩情あふれる作品のとりこになり、やがて収集した作品を一人で秘蔵するのではなく、みんなに見てほしいと美術館建設を思うようになった。真にその作品に相応しい場所をつくりたい。何必館は、そんな梶川氏の熱い思いが結実した、村上華岳と山口薫の作品を展示するための美術館なのである。華岳との出会いから十八年の歳月が流れていた。 京都・祇園。八坂神社のすぐ近く、四条通りを隔てて一力茶屋と向かい合う位置に立つ美術館は、梶川氏自らが設計図を引き、試行錯誤をくりかえしながら完成したという見事な建物だ。超高層ビルでも二、三年あれば出来るような時代に、この五階建ての贅をつくした美術館の建設に何と七年をかけたというが、ここへ来てみれば、それがどういうことかよく分かる。館名「何必館」の何必(かひつ)とは「なんぞ必ずしも」の意で、「だれの目にも確かと思われる定説を、なんぞ必ずしもと疑う精神、それを持ち続けたい」との願いをこめて名付けたという話も、自然にうなづけるのである。この美術館は単に美術館であることを越え、梶川氏の哲学の表現なのだった。
中へ入ると、広々としたエントランス・ホールの突き当たりにジャコモ・マンズーの彫刻「枢機卿」がスポットライトの中に浮かび上がる。その脇の、それ自身オブジェのような緊密な均衡を保つ階段を上ると、二階が和風にしつらえられた華岳の部屋だった。 暗めの照明のもとに「冬の山」「澗石雨冷」「山嶽図」など風景を中心とした作品が静かに並んでいる、その見事さ。これまで私は、華岳の作品をそんなに見る機会がなかったのだが、いっぺんに魅きつけられた。なんといったらいいのだろう、一見、墨絵のような淡彩で描かれた山は、文字通り命あるもののごとく、密かに、だが確実に胎動していた。絵のなかでこんなに生きて、呼吸している自然というものを、私ははじめて見た。 「画を作るといふことは、私には信仰の魂を研ぐ一行者の仕事のやうに考へられてきてゐる」。仏陀を描く心も山水を描く心も「どちらも作家の魂を研ぎ出すに於いて、結局甲乙はない。等差の置きやうがない。仏陀山水であり、山水菩薩である」という、以前に読んだ村上華岳の言葉がそのままに思い出された。画壇から遠く離れ、持病の喘息にあえぎながら一人制作に励んで五十二歳で死んだ華岳。ここで見る華岳は、これまで考えていた華岳とはまるで違っていた。 もうひとつ階段を上ると、三階はゆったりと洋風に作られた山口薫の部屋だ。1937年の第一回自由美術展の出品作である「花の像」から、「おぼろ月に輪舞する子供達」まで、その作品世界が深々と広がっていた。 山口薫には、生前何回かお会いしたことがある。いつも伏目がちで、寡黙で、ウイスキーのグラスをちょっと震える手で口に運ばれていた姿がありありと思い浮かぶ。アトリエはあんまりきちんと整っているというふうではなく、適当に乱れて、そこここに詩句の落書きがあった。いまこの部屋にも、幾つかの画家の言葉が掲げられている。その一つが例えばこれだ。 「父は、その作品を現代日本美術展で見た時、もう駄目だ、と思ったそうです。こんなに透明な作品が、生きている人間に描けるはずがない。輪になって踊る子供達を見下ろしている絵のなかの赤い馬のように、先生は、もうその上の大きな白い月の世界の近くにまでいってしまっている、とそう思った。だから恐くて、どうしても会いに行けなかった。その五日後に亡くなられたそうです」。 由紀さんの案内で、三階からはエレベーターで最上階に出た。エレベーターの扉が開くや、眼前に予想もしなかった空間が広がった。天井に楕円の穴をあけ、そこからふんだんに光のさしこむ、そこは美しい坪庭だった。緑の苔のなかに楓の木が一本。「光庭」と呼ばれるその小さな庭から京都の空が見え、柔らかい苔の絨毯の上を、雲の影がうっすらと動く。向こう側には日本間と茶室がある。そしてその床の間には、毎年の11月11日、華岳の命日の日にだけ「太子樹下禅那之図」が掛けられるのだという。なんという、心憎いばかりの演出であろうか。
この日はクローズされていたが、地階は北大路魯山人の部屋だそうである。
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