2004年(平成16年)11月1日号

No.268

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追悼録(183)

石坂洋次郎の教え子の特攻戦士

  同期生は心優しい。安田新一郎君が夫人と東北方面へドライブ旅行の途中、秋田県横手市にある「石坂洋次郎記念館」に立ち寄ったところ、「未発表の幻の作品を拝見し英霊のためにもと、コピーを頂いてまいりました」と石坂さんの作品のコピーを送ってくれた。
英霊とは56期の松井浩少佐(二階級特進)で、昭和19年12月5日、「鉄心隊」隊長として部下の3機とともにマニラのカロカン飛行場からレイテ湾スルアン島沖の敵艦船に体当たりを敢行、散華された。時に23歳。松井少佐は横手中学時代、石坂さんの教え子であった。未発表の作品には松井少年との交流が綴られている。この作品は実弟の松井雄さんが所蔵していた。
石坂さんは昭和4年から同14年上京するまで秋田県立横手中学(現横手高校)に勤務された。この間「若い人」が映画・劇化されベストセラーになった。戦後間もなく発表された「青い山脈」は余にも有名である。
 作品によると「教壇の上から観た松井浩君はいはゆる秀才型の中学生ではなかった。体格がすぐれて居り、運動神経も発達しておったから、教練、体操、武道の成績は抜群であったが、一般の学科は中の上といった程度の出来だった。が、身体も元気もあんなにスクスクと陰が無く伸び育った生徒は私の在職十余年間に滅多に見たことが無い」とある。昭和14年4月陸士入校後も松井士官候補生は横手出身の同期生とともに世田谷に住んでいた石坂さんの自宅を訪ね、ご馳走になっている。そこで松井候補生はとんだ失敗談を話して石坂さんの家族たちを笑わせている。入校早々身上調査があった。松井候補生の標準語が区隊長に通じない。区隊長の「何云うとるか」と質問したのを、たまたま区隊長の鉛筆の先が身上調査の「従妹」を指しているように見えたので「何結うとるか」と勘違えをして「お下げを結うております」と答えた。そのおかげで一人30分ぐらい絞られるのを言葉のおかげで5分ですんでしまった。その後、区隊長室に入っていくと別の区隊長から「お前の従妹はお下げを結うとるそうだな」とからかわれたという。
 松井少佐は律儀な方で石坂さんには2、3度ハガキを出しており、マニラに行く前には最後の別れを言うつもりであったのか、再三電報で石坂さんの在宅を確認している。この時は石坂さんの都合で会えなかった。56期「特別攻撃烈士銘々記」には同期生の綾川良清さんが次のように書いている。「航空士官学校時代彼がご両親始め郷土の知人に送った書簡は2000通を越え、決意とともに恩愛の情に溢れ今もなお人々の涙をさそう。私の目に残るものも柔らかな彼の笑顔である」その笑顔、特攻出撃直前の笑顔について石坂さんは「身体の中から自然にしみ出たように明るく和やかで微塵の衒いも気取りも感じられない」と表現しておられる。

(柳 路夫)

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