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連載小説 ヒマラヤの虹(8) 峰森友人作 谷側の休憩所に来ると、今更ながらに我が目を疑うような至近距離にアンナプルナの巨大な山塊があった。手を伸ばせば、いや大声を出せば、頂上をアタック中かも知れないどこかの登山家と肉声でやり取り出来るのではないかと錯覚された。 空が、薄い夜具を一枚一枚はがすようにして、夜から抜け出してくる。アンナプルナの稜線が次第により鮮明に浮き上がってきた。数分のうちに灰白色の空は淡いブルーに侵された。 その時ずっと東の方の空に漂う小さな雲が突然スポットライトを浴びたように赤く輝いた。と思った瞬間そのスポットライトの光線が一気にアンナプルナ上空の雲にも飛んで、緋色に染めた。慶太は急いで何枚かのシャッターを切った。イオス一〇〇〇につけたシグマの二〇〇ミリの望遠レンズを通して見る雲は、燃え上がる炎のような生気に満ちていた。 「もうすぐ朝日が山に来そうですね」 いつのまにか百合が慶太のすぐ後ろに来ていた。顔を洗い、髪をとかし、軽く顔を整えた黒いトレーナー姿の百合は、昼間見るよりももっと若く、まるでキャンプに来た女学生のようだった。 朝日が山に来る。そうだ、日本では山の頂上から水平線や地平線の日の出を見るが、ヒマラヤでは太陽を直接見ることが出来ない。高い山に当たる朝日で日の出を知るのである。 百合はアンナプルナの頂上付近をじっと見据えていた。 「グッモーニング」 オーストラリア人研究者が声をかけてきた。続いてドイツ人家族の娘たちが金髪を躍らせながら、あわただしく階段を駆け下りてきた。ポーターたちも自分の客の様子をうかがうために、一階のあちこちの部屋から集まってきた。 この間にも、アンナプルナに朝日が当たる瞬間がいよいよ近付いていた。話し声がなくなり、緊張感が一気に高まる。カメラを構えているのはなぜか男たちばかりである。 突然、ドイツ人家族の下の娘が、 「太陽だ!」 と叫んだ。 それはアンナプルナの頂上の東側の一角に一瞬稲妻のような光が走った時だった。 「オー、ボーイ!」 オーストラリア人研究者が感嘆の声を上げる。次いで居合わせた誰もが「オー」とか「ワオー」とか「マイ・ゴッド」などと口々に驚きを表わした。瞬く間に頂上の雪面も緋色に輝く。狂おしい色だ。それがゆっくりと稜線を伝い、さらに雪の斜面を染めていく。夜の間にデッサンし終わったアンナプルナのキャンバスに、光の絵筆が仕上げの色付けをし始めたかに見える。緋色が広がり終わると、次に稜線から始まって、斜面は金色に包まれていく。まだ夜陰から完全には脱していない暗紫色の低い山の後ろで、巨大な金塊が晧々と輝く。 アーともオーとも言えぬ声がまた口々から漏れる。一人がシャッターを切ると、つられるように他の人もシャッターを切る。 金色にすっかり染まったところで、今度は頂上が薄いピンク色を帯び始めた。それが次第に広がって、それまでの男性的で豪放な表情のアンナプルナがぬくもりすら感じられるような温かく優しい表情に変わっていった。また大きな溜め息が漏れた。ドイツ人の娘たちが、刻一刻変化する光の動きを二人競って親に説明し続ける。親たちは、「そうだ」「あなたの言うとおりよ」という意味合いの言葉を娘たちに返す。 バックの空の青さが増す中で、ピンクの斜面は次第にその色を失い、やがて頂上からみるみる純白が広がって、ついにアンナプルナ全体が眩しい白銀に覆われた。光のショーの完了。約二十分のスペクタクルだった。 百合もまた誰にも劣らず興奮し、感動している。細くくっきりした眉の下の長い睫で覆われた輝く目と細い鼻筋に大きな特徴を持つその顔を慶太は美しいと思った。ホテルとは違い、板壁一枚隔てだだけで一夜過ごしたことで、二人の心の距離もぐっと縮んだように感じられた。 トルカを出て、ランドルングという大きな村を抜けると、そこから斜面をはうトレッキング道は谷底のモディ・コーラに向かってまっすぐに落ちていた。この川はアンナプルナとマチャプチャレの雪解け水を集めて流れ、ポカラの西方でネパール三大河川の一つカリガンダキ川となり、インド北東部を横断、ガンジス川となってバングラデシュを突き抜けてやがてインド洋に至る。 谷に下り切ると、激しい流れの川に吊り橋がかかっていた。川幅約三十メートルの水面から二十メートルほどの高さにワイヤーロープで板張りの橋が吊り下げられている。ところどころ摩耗と腐食によって板が壊れ落ち、青い奔流が足の下で渦を巻いた。 急な対岸の山道を登ること三時間、二日目の目的地のガンドルングに着いた。各方面からのアンナプルナ・トレッキングルートはこのガンドルングで交差する。 民家が軒を連ねた石畳の道を上り、家並みを抜けた高台に今日の宿泊予定のロッジがあった。入り口に「ホットシャワー」の看板。それを実証するように、トイレとシャワー室が並んだ小屋の上に、太陽熱温水装置が取り付けられている。トイレは洋式、シャワーは間違いなく温水だった。 百合もシャワーを浴びて出てきた。洗ったばかりの髪が光っている。ヒマラヤの太陽は百合の顔にも二日間の山歩きの実績をうっすらと色付けていた。百合はタオルや洗ったティーシャツを慶太にならって、建物の庇に張られたロープにかけると、テラス状になった庭の慶太のテーブルにきて座った。アンナプルナとマチャプチャレがモディ・コーラの深い谷を挟んで左右に望まれる。そのマチャプチャレの頂上部は錐のように尖っているのではなく、中央部が切れ込んで、ちょうど魚の尾鰭のように見える。マチャプチャレという名はこの村から見る姿からきているのだった。今マチャプチャレは下から沸き上がった雲に次第に覆われ、頂上だけが見え隠れしていた。 このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 |