2004年(平成16年)1月10日号

No.239

銀座一丁目新聞

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追悼録(154)

偉大な先輩を偲ぶ

  真言宗の霊地、高野山に毎日新聞5代社長本山彦一さんのお墓がある。明治36年11月、50歳で社長に就任以来、79歳で死去する昭和7年12月30日まで30年にわたり社長業を続け、毎日新聞の発展のためにに尽くした。新聞に初めて予算制度を導入したのは本山さんが相談役のときである(明治23年)。新聞の不偏中立をとなえ、報道へ大きく舵取りをしたのも本山さんであった。「ただ事実の報道をする。何でも世間にある所の事実をなるべく 正確に報道する。これが新聞の任務だと考えている」(1920年11月3日大毎社報より)。聞くべきだと思う。いまの新聞は見当違いの解説が多すぎる。
折にふれてその所感を述べていたが、「新聞は商品なり」と喝破したのは大正11年に出版された小野秀雄著「日本新聞発達史〕の序文の中である。その商品を「報道の自由を守る」記者の志をないがしろにすると新聞は堕落する。視聴率に狂奔するテレビ界がそのよい例である。
高野山には3期先輩の陸士56期生の十三重の慰霊塔がある。先年、当時花園村の村長であった部矢敏三さんを訪ねる際、奥の院で偶然見つけお参りした。部矢さんは歌人でもあり、「谷間に弘法さまの拓かれし小さな村一つ凍れり」の名歌がある。花園村は高野山のお寺に花を出していたのでその名がついたと聞いた。
慰霊塔には56期生の戦死者、戦病死した同期生1141柱と戦後の物故者128柱が合祀されいている(建立は昭和54年9月,その後物故者は増えている)。56期は昭和17年12月、地上兵科1672名、18年5月、航空627名がそれぞれ卒業している。多くのものが大東亜戦争の最前線で奮戦した。とりわけ特攻隊員として、比島で19名、沖縄で18名、南西方面で2名が散華した。戦病死者を含めて戦死者は約5割に及ぶ。この人達はすべて靖国時神社に祭られている。

(柳 路夫)

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