2004年(平成16年)1月10日号

No.239

銀座一丁目新聞

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静かなる日々
─ わが老々介護日誌─

(23)
星 瑠璃子

  9月27日
 朝5時半起床。庭を掃いて打ち水をし、朝食のテーブルをセットしていると母と足立さんが起きてくる。この時間が少しでも遅れると、母は2階の足立さんの寝室に向かって、
「あーちゃん、大丈夫? 具合が悪い?」などと階段の下から大声で呼ぶので、足立さんはきっちり6時には母の寝室へ迎えに行かなくてはならない。
 入院前と違って母の朝の支度が足立さんの役目になったのは、彼女の方がその仕事に適しているからだ。たとえば洗顔にしても「もうとっくに洗ったわ」と主張する母に「じゃあ、もう一度洗いましょうね」とじつに優しい。「洗ったと思いこんでるんですら、それしかないわ」というのが足立さんの論理で、いうところの「説得より納得」は彼女の方がずっと上手なのだった。
 それでも少しずつとんがってしまう足立さんのソプラノ(足立さんは音大出)や、老人とは思えぬ母の朗らかな笑い声を聞きながら、私はフルーツサラダをつくりミルクティーをわかす。毎日のことながら、朝食まではひと騒動だ。
 けれどもほんとうに大変なのはむしろ食後である。食事が終わると一刻も早く散歩に出かけたい母はさっさと帽子をかぶり「靴を出してちょうだーい」だの「車が来てなーい」だのと、その気ぜわしさといったらない。いつもはおとなしいケンちゃんまでが張り切って走り回る。山のような洗濯ものを夢中で片づけ、さあ出発というときはもう汗だくだ。これが7時半前後。慌ただしいといえば本当に慌ただしいのだが一日中というわけじゃなし、それにこんなに散歩に出かけたいなんて嬉しいことではないか。5段階の点数付けもこのところずっと5点満点が続き、グラフづくりは小休止となった。

 9月29日
 大学時代からの親友、エッセイストのK が久しぶりに宇都宮から上京。予約をしておいた銀座のレストランで落ち合う。Kは政治家だった父上を亡くして7年になる。一時立ち直ったかに見えたのだが最近また落ち込んでいて、こちらが母に夢中になっている時はそんなことはおくびにも出さずに励まし続けてくれていたのだが、最近になって「泣いてばっかりいるのよ」と電話で話していたのが心配で会うことにしたのだった。栃木県と岩手県の文化会館の仕事をかけもちで引受け、宇都宮と種市(岩手県最北端の町)を行ったり来たりの疲れもあるには違いないが、この日の友は心身ともに消耗しつくしているという印象を受けた。
 Kは幼いときに母上(奇しくもわが母と私たちの大学の同級生)を亡くした。母上亡きあとには女医であったお祖母さまとともに、政治家の激務の中にあってさえ再婚もせずに手塩にかけて友を育てた父上が居られた。やがてお祖母さまが亡くなると、Kは父上と二人きりで残されたが、政界を引退された晩年の父上との暮らしは、人も羨む深い思いやりと愛にあふれたものだった。けれどもどんなに美しい生活にも必ず終わりが来る。父上はふと引いた風邪がもとで、明日は病院に行きましょうというその晩、Kの腕の中であっけなく亡くなってしまったのである。それからKの境遇は激変した。
 お祖母様とお父様。どちらもが九十歳を越えて亡くなるまでを、友はたったひとりで看取った。それはだれもが感嘆せずにはいられない完璧な介護だったが、彼女から介護などという言葉をついぞ一度も聞いたことがない。介護でなくて何だったのかと問えば、「それは私の生き甲斐だったわ」と答えた友。 
 そんな友に、私たち母娘がどれほど慰められ励まされてきたか言葉ではとても言い尽くせない。たとえば彼女は自らの仕事を目いっぱいこなしながら、手作りの美味しいものを段ボール箱いっぱいに美しく詰めては、三日にあげず宅急便で送ってくれるのだった。箱のなかには日光の花や雲の写真集や、やさしい手紙がいつも添えられていて、それがどれほど母の慰めになったか。入院中にはまるで命綱ででもあるかのようにベッドサイドにその手紙をリボンで結わえて置き、一日に何回となく読み返し読み返ししたのだった。
 
 10月7日
 つつがなく一週間が過ぎた。雨さえ降らなければ母は一日の休みもなくスケッチに出かける。車のなかで居眠りをすることも、恐怖の「トイレ ! 」や「お水 ! 」も全くなくなった。食欲は旺盛だが「ねずみさん」(夜中に出て来てあれこれ食べてしまうこと)もすっかり治まった。そう、母は「治った」のだ。もっと辛い経験をしている人は沢山いるだろう。たかが大腿骨骨折とその後遺症、と思う人もあるに違いない。けれどもそれが引き金となって呆けてしまったり、歩けなくなってしまった人もまた多いのである。そうならないために、私たちは頑張った。頭が少々おかしくなっても、歩けなくなっても、一度として「おトシのせい」などにしなかった。そうしてとうとう母は「治った」のである。
 時間的な余裕もできて、このところお見舞いをいただいてそのままになっていた友人、知人への手紙を書き始めている。以下はそのなかからの一通。

 あの暑かった夏が夢のように、秋が足早にやって来ました。
 過日はご丁寧なお見舞いをいただいたきり、心ならずもご無沙汰を重ねてしまいましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
 母は7月9日に退院しましてからいっときは、「ああ、どうしよう」と思うような状態が続きましたが、おかげさまでようやく、急激に、元の母に戻りました。
 「1カ月か2カ月経てば、必ずお元気になられるわ」と折に触れて励ましてくれた友人の言葉通りになりました。彼女の父上も退院後にはかなり悲劇的な状況があったと、いまになって聞きました。彼女はそれをたった一人の胸に秘めて頑張ったのでした。でもそれもこれも、もうみんな終わってしまった。母と私の日々も、やがては終わる時が来るのでしょう。
 母は元気になったとはいえ、やはりとしはとしで心配の種は絶えることがありません。またこの先どういう展開が待ち受けているのか知るよしもありません。けれどもそれは、老親を持つ人ならだれでもが経験することなのでしょう。ともかく、酷暑のなかで母とともに闘った夏が終わりました。克明な日記をつけていなかったら、自分でも信じられないような半年でしたが、おかげさまでひとまず危機から脱出できましたことは、いただきました様々のお心遣いの故と言葉にならない感謝の気持ちでいっぱいです。
 お忙しい日々をお過しのことと思います。どうかくれぐれもご自愛下さいますようお祈り申し上げ、まずはご報告かたがた御礼までに。

 (この項をもって「静かなる日々ーわが老々介護日誌」の第一部を終了いたします。しばらく休載の後、第二部を再開の予定です。ご愛読有難うございました)

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