1998年(平成10年)4月1日(旬刊)

No.35

銀座一丁目新聞

 

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ヒマラヤの虹(7)

峰森友人作

 ナラヤンが第一日目の宿泊地と予定したポサナという小さな村に着いたのは午後一時前である。このペースだと、もう一つ先の宿泊地のトルカ村まで行くことも可能だし、そこの方が朝の眺望がすばらしいというナラヤンの勧めに従って、さらに足を延ばすことになった。

 ポサナからトルカへは、一度急な斜面を数百メートル下って沢に出て、下った分だけ対岸の斜面を上り返す形になった。この一度谷に下ってまた上り返すというパターンはそれから後毎日続いた。アンナプルナの山麓では二、三千メートルの細長い尾根がひだのように幾重にも重なっている。このため、アンナプルナに近付くためにはこの山ひだを次々と乗り越えて行かなければならないのだ。途中額から背中にかけて通学鞄に当たる袋を提げた学校帰りの子供たちに出会った。貧しい子供たちの豊かな表情につい慶太と百合の顔がほころんだ。慶太が向けたカメラの前で子供たちはお互いの後ろに隠れあって大騒ぎした。

 農家や学校らしい建物が見え出してまもなく、谷を挟んだ対岸の山の後ろにポサナを出てからは全く見えなかった白い巨大な山が顔を見せた。七千二百メートルを超すアンナプルナ南峰とその後ろにぴったりくっ付くような格好のさらに約千メートル高い主峰(第I峰)である。予定を変更した第一日目の停泊地、トルカ村のロッジはすぐだった。それは大きな農家の建物を改造しただけの簡素なものだった。
「ミスター・サタケ、ここがあなたの部屋です」

 ナラヤンが案内した二階の部屋は、庇のかかった廊下がコの字型になった中央の窪みに当たる真ん中にあった。粗末な部屋のドアを押し開くと、三畳ほどの部屋の左半分に床几のようなベッドが置かれ、その上に薄いマットが敷いてある。

 「あなたの部屋はこちらです」

 ナラヤンは奥隣の部屋を開けて百合に示した。慶太の部屋と造りは全く同じで、二つの部屋を隔てるのはむき出しの丸太の柱に無造作に打ち付けた粗削りの板壁だけだった。その板壁にはいくつもの節穴があいている。光や音や空気は二つの部屋を自由に行き来することだろう。百合は特にそれを気にする風でもなく、中に入ると、廊下側にただ一つある小窓に下がった布切れのようなカーテンを持ち上げ、それが目隠しの役目をしていることを確認すると、カピールにバックパックを部屋の奥のベッドのそばに置くように指示した。

 軽い昼食を取った後、狭い道路を挟んで谷川に設けられた休憩所でのんびりと話しに興じている間にも、次々とトレッカーたちが到着した。慶太たちより先に到着していたのは、政府の委託で湾岸地域の開発調査で二年間を過ごし、キャンベラに帰る途中だというオーストラリアの女性研究者、それに夫婦と十歳前後の二人の娘からなるドイツ人一家だった。後から着いたのはロンドンから休暇でやってきたバージン・アトランティック航空の二人の客室乗務員。ノルウエー人の若いカップルも着いた。どのトレッカーにもポーターかガイドが同行している。

 トルカ村は標高二千メートル。周囲は三千メートル前後の山が囲んでいる。

 いつのまにか谷川の音が大きく響くようになったと思うと、夜は一気にやってきた。まず谷の一番深い底が薄墨を流したような透明の闇に浸された。その闇は、イスラムの女性が着けるブルガと呼ばれる黒いベールが顎から順に上に向かって顔を覆っていくように、山肌を這い上がり、やがて稜線近くに来て止まった。ヒマラヤの夜のとばりは下ろされるのではなく、下からたくし上げられてくるのだった。

 夕食は二階のコの字型の一翼にある展望用食堂で、トレッカーが思い思いに注文した食事を一緒に取った。百合は東京のジャーナリストのものとは思えない英語を操ってオーストラリア人研究者と盛んに戦争後の湾岸情勢を話し合っていた。その夕食の席を最初に立ったのはドイツ人一家である。次いでオーストラリア人研究者。しばらくして慶太も百合を促して立った。百合の部屋の前に来ると、

 「何か困ったことがあれば、いつでも声をかけて下さい。ここならどんな声もすぐ聞こえそうだ」

 慶太は努めて陽気に言った。百合は、はにかんだ笑みを浮かべ、慶太が部屋に消えるのを見届けるようにドアの前に立っていた。

 かすかな物音がしたような気がして、慶太は意識を呼び起こされた。自分がどこにいるのかを思い出すには少々の時間が必要だった。もしさらに隣から音が聞こえなかったら、もっと時間がかかったに違いない。外はほんのわずか闇から解放されつつあった。ただ布切れをぶら下げただけの小さな窓のカーテンの隙間からそれがうかがえた。

 『何時だろう?』

 寝袋の肩口に置いてあった小さなヘッドランプを探った。それは単三のアルカリ電池二本で五時間使用可能な、慶太の旅行中の必需品だった。四時四十分である。昨夜寝袋に入ったのが九時前だから、ほぼ七時間半眠ったことになる。慶太は夜中一度も目を覚まさなかった。記憶は定かでなかったが、一人の女性が山の上を飛んでいるような光景の夢を見たような気がした。

 今隣から聞こえる物音は明らかに着替えの動作からくるものだった。それが分かると、慶太は突然息苦しくなった。板壁一枚隔てた向こうで三十八歳という成熟し切った女の体の動きがまるで見ているように想像出来たからである。隣では慶太が目覚めていることを全く知らないかのように衣擦れの音が続いた。ブラジャーのスナップをとめるような音、ファスナーが閉められる音。下着から順にトレーナーまで着られるのが逐一分かる気がした。慶太は自分の呼吸の音で目覚めていることが隣に知れることを恐れ、吐く息を寝袋の中に吹き込んだ。やがて服を着終わったのか、靴を足元に引き寄せる音がした。どうやら両足に靴が履かれた。木の床をゆっくりと押さえて立ち上がる。化粧バッグなのだろうか。小さな金属容器の擦れ合う音が、二、三度した。それを一つの手に、もう一つの手にも何か持ったような気配がすると、咳払い、と言うには余りにも小さく優しく、喉がクンと鳴らされた。ドアがきしんで開けられる。ゆっくりと粗末な板張りの廊下を押さえつける音が慶太の部屋の前を通り過ぎていった。

 やっと息苦しさから解放された慶太は、寝袋のファスナーを下まで下ろし、大きな深呼吸をして上半身を起こした。じっとりと汗ばんだティーシャツの胸に冷気が染みとおった。ズボンと靴下を履き、セーターを着ると、タオルと石鹸に歯ブラシ、それにカメラを持って廊下に出た。外は先程からのわずかな時間の間にすっかり白んでいた。

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