2003年(平成15年)1月10日号

No.203

銀座一丁目新聞

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横浜便り(38)

分須 朗子

−「藍色の羊」3−

 人間の姿でいられるのは今日までだ。どこかへ行かなくっちゃ、行かなくちゃならないって、見えない何かがアタシの背中をぐんぐん押すんだ。
 アタシはつんのめりそうになりながら、ホームに入ってきた電車に滑り込んだ。横浜の方へ行きたかったのに、違う電車に乗ったみたい。
 アタシは、渋谷で降りた。
 駅前の交差点は、人が渦巻いてた。たくさんの車たちが往ったり来たりしてて、その合間を人たちがすり抜けて行く。微かな場所に人人人が押し詰められてこぼれ落ちそうだ・・・こんな雑踏の光景を初めて目にしたアタシは怖さと期待でドキドキした。笑ってる人、険しそうにしてる人、いろんな人がいるけど、みんな、知らんぷりしてる。
 アタシもみんなの真似をして歩いてみた。知らんぷりして、歩いた。こっちの道からあっちの道へ、あっちからこっちへ、何回も何回も渡ってみたんだ。街の流れにうまく乗れたみたいな時、ちょっと偉くなった気がした。
 でも、アタシ、どんな顔をしたらいいんだろう。いったい、大勢の中に一人ぼっちで、どんな顔をしたらいいんだろう。

 アタシは、高いビルのてっぺんに上った。誰もいない屋上で、交差点を見下ろした。みんなどんな顔をしてるんだろうって、行き交う人たちを見てた。長い時間いたから、ここで夜を迎えて羊に戻っちゃうのかなって思った。
 あ、あの人だ! その時、交差点の人混みに、あの人の顔を見つけたんだ。昨日、駅で出会った人、傘をさしてた人だよ。・・・あ、ちょっと待ってよ。えっと、何て呼べばいいの、名前なんて知らない。何を言えばいいの。あ、行かないで。・・・手を伸ばしたアタシは、不意に、ビルの上から落ちてく。
 アタシの体が、地上へと真っすぐに落ちる。空を切ってく時間の流れは緩やかで、つかめそうなくらいだ。ビル群のイルミネーションが灯り始めてて、街の輝きがアタシを包む。日没の瞬間がそこまで来てることが、アタシには分かった。ビルの屋上から地上までの真ん中くらいの所で、あの人に追いついた。
 あ、だけど、違う。違う人だ。アタシはよくよく見た。やっぱり違うって気づいた。あの人じゃない。アタシがあの人だと思った人は、別の人だったんだ。

 アタシは、女の子の体のまま地面に落っこちた。そのそばで、もう一人のアタシがふわり宙に浮き上がった。そのまま風の絨毯に乗って雲の透き間を舞うアタシは、羊の姿をしてた。アタシの心に笑みが広がる。アタシはアタシのままだった。
 羊年がくるといいなと思った。
 もしも、新しく生まれたアタシが藍色だとしても構わない。アタシは、アタシの藍色を受けとめる。そうすれば、幻に喜ぶことはない。もう、現に悲しまない。
 (おわり)

 ※ご好評の横浜便りは、この回にて当分の間、休載いたします。再会(再開)をお楽しみにしていてください。

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