2003年(平成15年)1月10日号

No.203

銀座一丁目新聞

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茶説

死ぬということ

牧念人 悠々

 「死を考える」。あと43年生きる私にはまだ時間があると思っている。だからあまり深く考えないが、58年前はそうではなかった。軍人の道を選んだからである。昭和18年4月、埼玉県朝霞にある陸軍予科士官学校に入り、19年10月には歩兵として同期生590名と共に、神奈川県座間の本科に入校した。決戦下、鍛えられた。連続一週間夜間演習という苛酷な訓練にも耐えた。大東亜戦争の戦局が切迫するにつれ「死」は念頭から離れなかった。ぶざまな死に方だけはしたくないと思っていた。どうしたら潔く死ぬ事ができるのか。答えは容易に見つからなかった。
私たちは少年期から青年期に移る年齢であった。天真爛漫であった予科時代と異なる心理的な変化を遂げつつあった。孤独、反抗、寂寞といった気持ちが心の中に影を落としていた(59期生史「望台」より)。
 同期生の一人は西富士野営演習の際(昭和20年1月18日から1月26日まで)、撃墜されたB29の残骸の中で戦死していた若い搭乗員をみて、改めて死を意識したという。(彼らは連日のように来襲するが、そのたびに何機かは必ず撃墜さてこういう運命になる。それでも彼らの空襲はますますはげしくなっている。彼らも真剣なのだ。甘く見てはいかん・・・と同期生は思ったという)
東京がはじめてB29の空襲を受けたのは昭和19年11月24日で、それから定期的に始まった、昭和20年3月10日の空襲では死者21400名、行方不明多数、233000戸が焼失した。この頃私達は12の部隊にわかれ隊付教育中であった。私は岐阜の68連隊に派遣された。兵隊さんたちは40過ぎたひとばかりで、小銃も剣も全員にはゆきわたっていなかった。これで本土決戦はできるのかと思った。
 戦場は苛酷なものである。砲撃のすざましさに先輩の将校が、気が触れ逃げだしたという話も聞いた。「武士道とは死ぬことと見つけたり」は何度も聞かされた。「戦場は怖いのは決まっている。体が震えたら一服タバコをすえ、すると落ち着く」とも教えられた。いろいろ考えたが、私にとって死とは、「与えられた任務を狂気になって遂行する中にある」と思い至った。
 戦後、新聞記者となった。この気持ちを忘れず働いた。毎日新聞の17歳後輩の佐藤健君が昨年12月28日死んだ。1月3日我孫子の真栄寺での通夜で驚いた。仏壇の前に200本近いお酒が並べられていた。しかも全国の銘酒である。賑やかに送って欲しいという故人の意思だそうである。酒友の佐々木久子さんは酒を飲みながら「この世がヤミであの世は光です」と含蓄のある話をした。告別式にはお酒は100本になっていた。私は死は創られるものではなく、その人の仕事の延長線上のあるもの、あるいはその人の生き方の表現だと思う。心理学者ユングが言うように死後も自己完結を目指して遠い旅を続けるのであると信ずる。静かに死ぬことを願う私はその直前に「銀座一丁目新聞」に今の心境をつづりたい。120歳の人間の言うことに耳を傾けてくれる人がいれば嬉しい。

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