2003年(平成15年)1月10日号

No.203

銀座一丁目新聞

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追悼録(118)

 陸軍航空士官学校卒業直前、単独飛行中、殉職した佐藤力さんの追悼集「日本人佐藤」(非売品・昭和19年10月刊)を読む。満州・奉天生まれ。昭和13年4月奉天一中一年から東京幼年学校(42期生)、昭和16年4月予科士官学校(57期)、昭和17年7月航空士官学校へと進む。
 私の二期先輩である。ハルピン、大連と満州に育った筆者は人一倍親近感を持つ。昭和18年4月満州地区から33名の若者が陸士に進んでいる。母親四計(しげ)さんの話では「大陸生まれ、大陸育ちのゆえ、満州ゴロ、ダルマとあだ名され、周囲のひとたちに快男児とも奇男児ともいわれる強烈な印象を与えていたらしい」という。相当変わり者であった。将校生徒の修養の現状を憂いて「学校教育刷新に関する建白書」を上司に具申したり、寒稽古の剣術試合に北川閣下を組み伏せ、面をとったりしている。追悼集を読む限り熱烈に同期生を愛し、国を愛した快男児であった。「酒を愛し女を愛し国を愛し大和男児は国に死すべし」の歌を最も好んだ。航士在校中の日記(昭和18年9月24日から昭和19年1月3日)が載せられている。ものすごい修業ぶりである。頭が下がる。陸士では自習時間に毎晩、反省日記を書かされた。私もつたない日誌を書いた。
 10月28日。 「昨朝中野正剛自殺す。奇しき哉。吉田松蔭先生の御他界と日を同うす」佐藤さんは新聞をよく読んでいたようである。私の同期生でも中野正剛の自殺を知っていた者は殆どいなかった。日記にはしばしば松蔭の言葉が出てくる。11月9日。 松蔭先生曰く「人心の根本を尋ね出せば仁の一字尽せリ。義は即ち人の行く所即ち義なり。君子小人ともに行く所義に出でざるはなし。若し義に非ざれば今日が通用せざるなり」11月11日 松蔭先生「誠あれば生き、誠なければ死す。然らざれば何を以てか天地に対越せんや」
 よく本を読んでいる。学校が禁じた書籍を購読したこともある。
 佐藤さんは昭和19年1月4日、特殊飛行訓練中故障のため機体がきりもみ状態になり、機外に脱出したが、落下傘が開かず、埼玉県飯能の朝日山中に墜落死した。3月の卒業目前であった。陸軍少尉に任ぜられた。
1月3日(最後の日記)には「力強き一歩、断じて挫けず」とある。
 佐藤さんの一期後輩58期が予科を卒業したのは昭和18年12月13日で、翌日航空兵は修武台へ進んだ。そのころ、私達59期生も振武台生活がすっかり板についてきた。1月1日から3日は休みであった。元旦は大講堂で牧野四郎校長と榊原主計生徒隊長の訓示を聞く。同期生長井五郎の日記によると、その要旨は「光栄の自覚と感激の持続、具現とにあり」であった。
 佐藤さんの葬儀(1月11日)では中隊長、江口洋一陸軍少佐(陸士47期)は長文の弔辞を読んだ。その中で「『松蔭と其の弟子達の行きし道願はくは我師我等も行かん』と記したる純情に触れては余の熱情は燃え上がり、余の有する一切を挙げて、君が玉成に資せん事を決意せり。然るに天か、命か、今突如として君を失う。・・・・」と佐藤さんの死を惜しんでいる。
 奉天一中の同級生で4年から予科に入り航士で同じ中隊であった上西正三さんは「『俺はやるぞ。兵と共に、泥にまみれて』この言葉こそ君の真姿だ」と追悼の言葉を述べている。志半ばにして殉職した佐藤さんの『殉難碑』が事故現場近くの飯能市の浄心寺山頂にある。

(柳 路夫)

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