2002年(平成14年)12月20日号

No.201

銀座一丁目新聞

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横浜便り(37)

分須 朗子

−「藍色の羊」2−

 女の子の髪の毛が、肩のあたりでサラリとなびいた。憧れの人間になったアタシは、二本の脚で飛び跳ねてみた。体が軽くなったみたいだった。
 駅へ向かう途中、道路沿いの店をのぞき込んだ。開店前のショーウィンドーに、人間のアタシが映っている。アタシが手を振ると窓の女の子も手を振った。アタシは嬉しくなった。だが一方で、とても戸惑った。
 それは、初めて味わうヘンな気分だった。胸の辺りがぐちゃぐちゃした感じだった。体が軽くなった分、心臓が重くなったみたいだ。
 朝の風が、頬を冷んやりとつきさす。アタシは、白いふわふわの毛がついたコートの襟元に首を縮こめた。空気を小さく吸い込んで、空を見る。灰色の雲が泣きそうで、思わずアタシは、楽しいことを考えようとしていた。
 泣きながら笑うなんて、これも、初めての難しい気分だった。今度は頭の脳みそがどっしり重くなったみたいだ。
 指先で、髪の毛に触れてみる。長くて真っすぐの手触りは、気持ちがよかった。でも、それもつかの間、アタシは、自分の髪の毛が藍色のままだったことに気がついて、逃げ出したくなった。すぐさま牧場に戻ろうかと思ったくらい。
 でも、だめだ。神様は、アタシに、二日間をくれたんだから。お昼間のアタシは、人間になる約束だ。
 アタシは大嫌いな藍色を隠したかった。頭の毛を気にして、ぼうっとしていたんだと思う。交差点で女の人とぶつかって、尻もちをついたんだ。それから女の人がアタシに手を伸べてくれて、でも、アタシはとっさに「触らないで!」と叫んでいた。アタシの肩を起こしてくれようとした女の人は、なのに、優しく微笑んだ。
 アタシは、悲しみに出会った。

 とりとめもなく揺られて、電車は、こどもの国駅から終着までたどった。駅には幾つも線路が並んでいる。アタシは、横浜駅へ行くプラットホームの端っこにしゃがんだ。辺りに、雨の匂いが充ちていた。雨水が、ホームの地面を伝って這っていく。
 頭の毛が湿っていった。藍の色が光っていくようで、見なくても分かった。アタシは頼りなく、ただじっとしている。
 そんな時だったんだ、頭の上で、雨の音がパチンパチンと弾けて広がった。見上げると大きな傘があって、所々で、星のしずくを散らしたみたいに瞬いてるの。アタシは愉しくなって、点々と輝く光を一つ一つ数えていった。
 どれくらいの間そうしていただろう。和やかな時が流れていく。
 しばらくしてから、アタシは傘の外をのぞいた。
 男の人が傘をさしてくれていたんだ。その人はびしょ濡れなのに、アタシは、どうしてか、笑い顔になっちゃった。それに、ありがとうも言わないで、「藍の髪の毛、ヘンじゃないかな」なんて聞いていた。
 その人はそのまま黙って傘をさしかけてくれて、だから、アタシもそのまま傘に入っていた。そこは、羊の毛よりも温かい感じ。アタシの心の奥の方がほんわりぬくくなる。
 アタシは、喜びに出会った。

 すぐそばまで夕闇が迫っていた。そろそろ日没だろう。アタシは、もうここにはいられないと思った。だって、アタシは羊の姿に戻るんだから。
 ちょっとの時間に、アタシはいろんなことを考えた。傘を持つその人の腕が疲れないかなとか、このままじゃ風邪ひいちゃうよとか、羊だってことを話してみようかとか、もしかしたら羊のペットが欲しいかもとか、アタシも人間になりたいなとかとか・・・。
 でも、アタシは「さよなら」って言って、傘を出た。
 だって、今日は疲れちゃって眠たいから。明日という日はもう来ないかもしれないのに、ね。人間の生活って、そんなもんなのかなって思った。
 (つづく)



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