2002年(平成14年)12月20日号

No.201

銀座一丁目新聞

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追悼録(116)

 毎日新聞の西部代表の時、「面白い人がいる」と広告の部長から紹介されたのがベスト電器の北田光男さんであった。話は面白かった。北田さんの移動はすべてタクシーである。社長車を持つよりお金がかからないからである。きわめて合理的である。10坪の仮店舗から出発、私と会った時にはすでに、二部に株式を上場(昭和57年12月)を果たしており、社長車を持ってもおかしくない経営規模であった。
 また、頑固である。ベスト電器の前身、テレビ安売り店「バーゲンセンター」の頃、あまりの値引き販売に反発を買い、12年間も、メーカーや地元業界の村八分に会い苦労をした。一歩もひるまなかった。この苦境を救ったのが松下幸之助さんであった。どこかで「変わり者北田さん」のことを聞かれたのであろう。松下の製品をだしてくれることになった。「経営の神様」といわれた松下さんから声をかけられた話をする北田さんは心の底から嬉しそうであった。松下さんの勧めで店の名前を「ベスト電器」と変えた(昭和47年10月)。会社は順調に発展した。この人の座右の銘が「天は自ら助くる者を助く」というのはわかる気がする。
 北田さんは大連2中の7回生で、私の先輩である。福岡での2中の集まりには顔を出したことがない。その意味では付き合いの悪い人であった。だが、2中の精神である「負けじ魂」だけはしっかりと発揮されたのは間違いがない。また、一代で家電量販大手に会社を育てたのは、2中校歌にいう「務めを果たす人とならん」を実践した校友として尊敬できる先輩である。
 11月25日、死去。享年88歳であった。

(柳 路夫)

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