2002年(平成14年)10月1日号

No.193

銀座一丁目新聞

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追悼録(108)

 毎日新聞の物故社員追悼会に出席した(9月20日)。今年なくなった社員は141柱である。心からご冥福を祈り、献花した。毎日新聞を去ってはや14年、先輩、後輩がこの世に思いを残しながら去ってゆく。
上村博美記者(享年76歳)について書く。警視庁記者クラブで一緒に仕事をした仲間である。昭和25年1月、記者クラブにきたとき上村さんはすでに書かざる事件記者として活躍していた。「書かざる」というのは、情報を取ってくるのが抜群なのである。それも特種である。それを先輩記者が書く。本人に書かせると、時間がかかりすぎて締め切りに間にあわないからだ。そのためこの形容詞が生まれた。もうひとつの特技が「警察官の顔写真」をとるのが大変上手であった。他の記者が取れないものを必ずもってきた。神業であった。
 この人の記者人生を変えたのが取材中の事故であった。昭和24年7月15日、東京・三鷹駅で無人電車が暴走、死傷者20名を出す「三鷹事件」が起きた。私もこの事件に狩り出され一ヶ月ほど現場で寝泊りして取材に当たった。このときも上村記者は夜討ち、朝駆けでよい情報をもってきた。ある朝のこと、朝駆けの取材を終えて三鷹の前線本部へ帰る途中、荻窪付近で乗っていた毎日新聞のサイドカ―と乗用車が衝突、上村さんと運転手がけがする事故が起きた。幸い二人とも大怪我にならずに済み、間もなくして職場に復帰した。乗用車に乗っていた人が人物であった。当時文書課長で、後に国鉄総裁になる磯崎叡さんであった。非が両方にあったのにもかかわず上村さんの面倒をよく見た。上村さんの恬淡とした人柄に魅力を感じたのかもしれない。いつのまにか上村さんは事件記者から国鉄記者に変身する。
 毎日新聞が有楽町から竹橋に移ってきたのは昭和41年9月だが、社屋建設計画は38年からスタートする。ここで上村さんは国鉄記者としての実力を発揮する。
 新社屋と建設中の地下第五号線(東西線)の新駅を結びつけた。「竹橋・毎日新聞社前」という東西線の駅の誕生である。誰もができることではない。斉藤明社長は追悼祭文にもその事に触れられた。

(柳 路夫)

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