2002年(平成14年)10月1日号

No.193

銀座一丁目新聞

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ある教師の独り言(2)

−水野 ひかり−

 そんな私が授業するのだから大変だった。国語と図工なら少し自信があったけれど、自分が得意でも子どもたちに教えることが出来なければ授業は面白くなるはずがない。子どもとどう関わればよいかを考えずに子どもたちと向き合っても子どもたちはどんどん離れていってしまう。そんな事は全く気付きもしなかった。ぐだぐだと愚痴ばかりこぼして、子どもたちのことを好きになれないまま毎日を過ごしていた。
 先輩のO先生が「私は子どもたちに育てられたのよ」と、そのころ私によくいっておられた。今ひとつピンとこなかった私にはわざとらしく聞こえ、態度に表わさないものの聞く耳をもって聞いていなかった。その言葉を今私はしみじみと感じている。まさに私は子どもたちに育てられた。子供の表情や態度から人と接する時の大事な事をたくさん教えてもらった。教師としても人間としてもあのころよりもましになったなと感じられるのだ。
 新任の年に受け持った子どもの中で今も律儀に季節の挨拶をよこしてくれるS君が今の私を創るきっかけになった人だと思う。教師になって三年目がすぎたころだった。私は彼から一通の手紙を受け取った。大いに驚かされたのである。彼が私のクラスにいたころ私は朝の会で、絵本や童話を聞かせていた。自分の気に入ったものだけの紹介で好きな朗読ができるというだけで先輩からも「自己満足に過ぎない」などといわれていし、授業より子どもたちの受けが良いので何の効果も期待もせず軽い気持ちで続けていた。
 それが彼にとって最高の時間だったとうのだ。今まで本はつまらないと思っていた自分がウソのように図書室に通い友達と先生が知らない面白い本を探そう躍起になっていたというのだ。さらに朗読も練習し、練習をすればするほど読解力もみについて国語の成績もそのころから上がってきた。
 すべて先生のお蔭です。というその一文を読んだ時、思わず赤面し自分が凄く情けない人間に思えた。私はそのころの彼の変化に気もしなかったのだ。朗読もすこしずつうまくなっていたのだろう。私が指名読みをさせる時、手を上げた彼の顔はきっと意欲と自信に満ち溢れ、指名されたときはみなの前で自慢の読みができることの喜びで一杯だたと思う。
 そのどれも私は見落とし、無視してただ授業を(?)を流していたのだった。子ども全体からかもしだされるマイナス面ばかりを拾い上げ最低のクラスだともいってのけていたのだ。子どもたちの殆どはそれでやる気をなくしてしまう。彼などは貴重な存在なのだ。三年たっても満足な授業が出来ず、毎日をただなんとなく過ごしていた私はすっかり落ち込んでしまった。そして思った。本物の教師になろうと。
 本物の教師って・・・どう捉えたらよいのだろう。今まで良い授業とは―とか良い教師とはとかをテーマにいろいろ研修し、実践してきたがこの仕事の奥が深い。子供たちは私をどう捉えているのだろうか。ひとつだけ言えることは今の私はこの仕事が大好きになっていということ。どうしてそうなったのであろうか。これから今まで出会った子どもたちやその子どものあり方、本物の教師とはーという事を考えていきたいと思う。

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