競馬徒然草(16)
−人と馬の文化−
いささか古い話題だが、2月にブッシュ米大統領が来日した折、明治神宮で流鏑馬(やぶさめ)を見学した。「日本文化に触れたい」という大統領の希望に沿うものとして、かつ多忙な日程を考慮すると、流鏑馬の見学は妥当なものといえるだろう。だが、当時の一般の声には賛意が少なかったようだ。さまざまな声があっていいわけだが、少し気になったことといえば、この古式豊かな行事に対する一般の関心度が、あまり高いとは感じられなかったことである。
「流鏑馬」といえば、鎌倉の鶴岡八幡宮で行なわれるものが知られている。馬を走らせながら、かぶらや(鏑矢)で3つの矢を射る射技で、鎌倉時代に最も盛んであった。平安時代から行なわれ、神事として奉納されたようである。神仏の化身としての神馬(しんめ)を、神社、仏閣に繋養するようになったのは702年(大宝2)からで、その後、生きた馬の代わりに絵馬が奉納されるようになった。
馬を走らせる行事としては、「加茂競馬」(かものくらべうま)が、平安時代から加茂大社で行なわれており、よく知られている。祭典競馬といってよく、1093年(寛治7)との記録もある。それ以前にも、端午の節句に朝廷の儀式として行なわれていたようであるが、ともかく900年も昔のことである。
馬術として盛んになるのは江戸時代になってからで、大坪流、間垣流などの古式馬術が大成した。語り伝えられるものとしては、間垣平九郎が愛宕山の石段を愛馬で駆け上る妙技を見せた話がある。講談の全盛時代には、その一席が聴衆の喝采を浴びたものだ。時代小説には、剣客はしばしば主人公として登場する。だが、馬術に秀でた人物の登場は少ない。暇のある人は探してみるのも面白いかもしれない。
わが国で近代競馬といえるものが始まったのは、1861年(文久元)、横浜で在留外国人によって開催されたのが最初である。日本の武士たちが英国人と競馬をするさまは、当時としてはビッグニュースであっただろう。文明開化とともに競馬が盛んになるのは、その後、横浜に根岸競馬場ができてからのことである。
昔から人は馬とともに暮らしてきた。交通の不便な時代には、馬は人を運んだ。街道の宿場にも馬は置かれた。荷物も運んだ。農村では、農耕に欠かせない存在であった。人と馬が同じ屋根の下で暮らした農村もある。馬が亡くなると、墓を作った。馬の霊を慰めるために、馬頭観音も建てた。
日本古来の馬は在来馬(和種)といわれ、北海道から沖縄に至るまで、日本列島の各地に見られる。その祖先は蒙古馬で、中国大陸から日本列島へて渡ってきたといわれる。それらも今や絶滅の危機にあるは、木曾馬の例でご存じの人もいるだろう。
「たかが馬、されど馬」、なのである。 (宇曾裕三) |