2002年(平成14年)2月20日号

No.171

銀座一丁目新聞

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横浜便り(27)

分須 朗子

−短い物語 「ベクトル」 1−

 立春が過ぎた。旧年を越えたせいか、鎌倉の町は参拝客でにぎわっている。裸のままの桜並木をそぞろ歩く男女たち。冬の陽光に包まれ、心なしか華やいで映る。大通り沿いの菓子店から漂う甘い香り。店先に踊るバレンタインの文字に、ミヤコは、町をほんのり桃色に染めている訳に気づく。
 ミヤコは足早になって路地裏へ入った。今年もまた、バレンタインデーの苦い記憶が意識の真ん中をよぎり、世の中から逃げ出したくなる。もう忘れてもいいようなずいぶん昔の出来事なのに、この季節になると決まって、あざやかに蘇る。ミヤコをしんどくさせるのだ。

 路地裏に立ったミヤコは、どこか知らない道に迷い込んでしまったようだ。細長い道の上に立っていた。道の片隅には、木の扉がぽつんと見える。背丈の低い真っ黒い扉。小さく、「占いの店 ベクトル」と彫ってある。扉の中央には、店のトレードマークだろうか、一本の矢を射られたハートがデザインされている。そして、張り紙が一枚。そこには、「この扉を開けば、あなたの進む道が見えてくるでしょう。あなたの運気は、強弱や大小の数だけでなく、方向で表すこともできるのです。」と書かれていた。

 占い師の女性は、「バレンタインデーにようこそ」と言って、ミヤコを迎えた。
 ミヤコは、占い師の女性にたずねた。
 「バレンタインデーは、誰の味方ですか?」
 占い師の女性は答えた。
 「恋する者の味方です」
 ミヤコは言った。
 「バレンタインデーは、わたしの味方をしてくれませんでした。バレンタインデーのおかげで、苦い記憶が一つ残ってしまったのです。助けてください。」
 占い師の女性は言った。
 「残念ながら、わたくしには、恋の行方も後始末も手助けすることはできません。なぜなら、恋は神様の気まぐれだからです」
 ミヤコはたずねた。
 「神様のきまぐれで、恋は生まれるのですか」
 占い師の女性は言った。
 「古代ギリシャのその昔、神々の世界では、愛の神であるエロスの矢に当たった者が、恋に落ちることになっていました。つまり、恋は神の仕業です。時も場面も相手も選ぶことができないでしょう。恋に道理はないからです」
 ミヤコはたずねた。
 「神様は、人を苦しめるために、矢を射るのでしょうか」
 占い師の女性は言った。
 「その昔、美の神であるアフロディテは、憎き敵を苦しめるために、エロスに矢を射るように命じました。つまり、恋の矢は凶器ともなり得ます」
 ミヤコはたずねた。
 「神様は、矢を抜き取るすべは教えてくれなかったのでしょうか。私の心にぐっさり刺さった矢をどうか引き抜いてほしいのです。ぽっかり穴が空いても構いません」
 占い師の女性は言った。
 「それは、素晴らしい矢に当たりましたね」
 ミヤコは黙ってしまった。
 占い師の女性は続けた。
 「心の矢を大切になさい。運命に従いなさい」
 ミヤコは言った。
 「これは不運なのです。しんどいのです」
 占い師の女性は言った。
 「あなたの人生に起こる不運と仲良くしてごらんなさい。不運という友達が、この先、きっと、あなたを助けてくれるでしょう」
 ミヤコはたずねた。
 「心の矢と友達になれと?」
 占い師の女性は、笑みをたたえて言った。
 「ようやく、あなたのベクトルが見えてきたようです」



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