上村松篁さんの「万葉の春」が好きである。昭和45年の作。大きさは縦186センチ横765センチの大作。この年の3月、近鉄奈良歴史教室の大壁画として完成されたものである。
2月11日、日本橋・高島屋で「上村松篁展」を見た。かなりの人の入りである。もともと、上村さんは現代花鳥画に新境地を開かれた。展示された70点はほとんどが花鳥画であった。
素描「万葉の春」の前に立つ。紅桃と白桃の花が咲き誇る中、美女3人、笛を持つ童女、右端に若き貴公子が両手に黄色い花を掲げて立つ。水鳥が戯れる湖水のはるか彼方には山々が雲をたなびかせている。ゆったりした、穏やかな、萌えいづる春を賛歌する。解説には大伴家持の歌がそえられる。
「春の苑くれないにおう桃の花下照る道に出で立つおとめ」
会場に井上靖の歴史小説「額田女王」の挿絵原画6点がある。この挿絵がきっかけで、初めて歴史風俗画に挑戦し「万葉の春」が生まれた。上村さんが挿絵を書くのは二度目で、「額田女王」が「サンデー毎日」に連載されたのは昭和43年1月から同44年2月までである。この間、画室の脇の別室の参考になる書物や資料を一杯積み上げて仕事をされた。名画もそれなりの苦労をしながらできあがったことを知った。
額田女王は「万葉集」のなかでも傑出した歌人である。後に天武天皇となる大海人皇子に愛され、十市皇女を産む。十市皇女は弘文天皇の妃となる。壬申の乱は大海人皇子と弘文天皇の争いである。そういった悲劇性も女王はもつ。
天知7年(668)の5月5日、天智天皇は蒲生野で遊猟をこころみる。その時に、大海人皇子が額田女王に答えた歌。
「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえに我恋ひめやも」
額田女王の歌
「茜さす紫野行きしめ野行き野守は見ずや君が袖振る」
上村さんは「万葉の春」が完成したとき、見にきた人に「これはあなたのお家芸か、それとも隠し芸か」と聞かれて「裏芸です」と答えたそうだ。その裏芸がたまらなく良い。
上村さんは平成13年3月11日、死去、享年98歳であった。
(柳 路夫)