1999年(平成11年)5月1、10日合併号

No.73

銀座一丁目新聞

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ゴン太の日記帳 (37)

目黒 ゴン太

 若い女の子の間では、もう随分と以前からのことなのだが、プラダやヴィトンと言った一流ブランドの鞄や財布を持つことが、大流行している。一時期の過熱していた時から比べると、今は、少々、持ち歩く女の子の数が落ち着いてきたかなあと思っていたら、そうではなく、自分の目が、慣れてしまっているだけであった。というのも、流行りだした頃は、その一流ブランドの持つ、醸し出す雰囲気が、年端も行かない女の子達の背中や手元において、違和感をひしひしと感じずにはいられなかったのが、最近では、見馴れてしまったが為か、ごく普通のことのように見過ごすようになってきたのだ。

 しかも最近では、この一流ブランドブームの余波は、中学生の女の子や、若い男性にまで広がってきており、とどまるところを知らぬ勢いのようだ。又、一流ブランドに限らずとも、若年層の衣類や携帯物にかける金額の量は、年々、上がってきているように思う。斯く言う自分も、いつの頃からか、自分が身に着ける物に、ある種にこだわりを持ち始め、少々、身分不相応とも思えるような、高額の品を買って、喜んで持ち歩くようになっていたりするのだが…。

 しかし、自分の場合、この身分不相応な品を手に入れた後、その都度、手に入れることができたという喜びと共に、それとは全く逆の気持ち、空しさの様な、馬鹿馬鹿しさとも言えるものが、どこからか込みあげてくるのだ。とても当たり前で、買う前から判り切っている、その物自体の価値についての疑問と改めて、頭の中で自問自答し、格闘するのである。例えば、デザインとそのブランドの持つステイタスに惚れ込んで買った5万円程の鞄があるとする。その鞄を前にして自分は、牛丼100杯が、これで食えたとか、この鞄の為に、自分は、一体、何時間分のアルバイトをしてきたのだろうなどと思いを巡らせたりしてしまうのだ。

 そんなどうしょうもないような自分の葛藤について、先日、大学の講義において、消費行動の移り変わりとして学ぶこととなった。鷲巣 力氏の講義であったのだが、人類が消費行動を行い始めてからできた消費社会には2タイプあり、一つは、生理的要求に基づく消費、もう一方は、社会的地位を示す為、差別化の為の消費であるという。言うまでもないが現代社会において、台頭してきているのは、後者のタイプであり、又、物に対する価値判断も、使用価値よりも、記号価値っを重視する傾向があ強くなってきている。正に、その消費活動のタイプが、今の世の中にはびこっていると言え、その波が若年層にまで、浸透してきている証拠になるのが、近年の一流ブランドブームと言えなくないと思うのだ。

 しかし、ブームであるとか、消費行動のタイプが変わったと言われて、一応、それらの波の中に身を置き、波に乗ってはいるものの、どうも納得いかない自分もあるのも事実だ。服も靴も、極論を言えば、その時々の気候に合わせ服を着て、鞄も必要最低限の大きさと使い易さがあれば、事は足りるのだ。そうすれば、今の世の中、驚く程安くあがるようにできている。たかが服、、たかが鞄なのだ。しかし、そう簡単に割り切って暮らして行く自信もない自分もある。でも、やはり、あまりにも過剰に、流行やブランドに反応するのには、まだ、歳も若過ぎ、物の価値も正確に判断できていないとも思えるので控えてゆくべきなのであろう。一流ブランド品には、一流と呼ばれるべき、デザインとステイタスと使用価値があるからこその品々である筈で、それらの物を持つなり、着るなりしても、決して、物負けすることのないようになってから買う権利を有するようになるのだと思い始めた。いつのことになるのかは、わからない、でも、丁度、小学生がランドセルを初めて背にしょった時みたいに、物に体も心もついていけてない人のブランド品程、見すぼらしく勿体ないものはないのではないかなあと思う。

 

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