1999年(平成11年)5月1、10日合併号

No.73

銀座一丁目新聞

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小さな個人美術館の旅(67)

かみや美術館

星 瑠璃子(エッセイスト)

 地図を広げると、三河湾を両腕に抱くように渥美半島と知多半島があった。半田市は知多半島のちょうど付け根のあたりである。

 北川民次を見たい。そう思い続けていた私がはじめて知多半田駅に降り立ったのは、春まだ浅い日のことだった。名古屋から名鉄河和線の特急で三十分ほど。その先は普通ならバスでさらに三十分も行くのだが、神谷幸之理事長の息子さんが駅まで迎えに出ていて下さった。

 車を降りて、春日山美術公園と呼ばれる小高い丘に登る。これも神谷氏の収集になる現代彫刻がそこここに置かれる公園から、天気がよければ三河の山々がくっきりと望めるというが、この日はあいにくの小雨もよい。低く垂れこめた空の下に田園地帯がやわらかに広がるばかりだ。けれども臨海部と思われるあたりに工業団地の煙突などが小さく光って、見遥かす風景がどこか仄明るいのはやはり海が近いせいだろうか。公園を抜けると、レンガタイル貼りの美しい建物があった。神谷氏が長年収集してきた近代・現代の日本の洋画家の作品、とりわけ北川民次の作品で知られる「かみや美術館」だ。

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かみや美術館

 大きな展示室は左右二つの部分に分かれ、一方には村山槐多、萬鉄五郎、長谷川利行、梅原龍三郎、熊谷守一、飯野農夫也などの作品。もう一方で北川民次の特別展が開かれていた。1913年(大正12)、二十歳でアメリカに渡りメキシコで活躍した北川は、二十二年後に日本に帰り、戦後は愛知県瀬戸市にアトリエを構えたが、そこは半田とは程近い距離にあった。名古屋で法律事務所を構える弁護土神谷氏がアトリエを訪問し、しばしば飲み屋のお供をする仲になると、画家と収集家というよりは人間的なつきあいが始まり、それは二十年も続いた。やがて神谷氏は全財産をつぎこんで財団法人を設立。土地を確保し、建物を建て、一点ずつ買い集めた作品をもとに美術館をオープンさせたのは、画家が九十五歳で亡くなる五年前のことだった。

 北川作品は油彩、水彩、版画、水墨画など百数十点を収蔵するという。この日は開館十五周年を記念しての油彩画のみの展観だった。メキシコ時代の作品、「姉妹」「カンディダ(無垢の女)」「女の像」「メキシコ・悲しき日」などから始まり、「雑草の如くI」「画家と娘」「山羊と裸婦」など戦後間もない作品を経て、神谷氏が北川民次を買った最初の作品という「陶工たち」や「アーティチョークの花」など、ほぼ生涯にわたる作品を時代順に並べた展観は圧倒的な迫力である。

 つき抜けるように明るい原色の「茶畑」(帰国後すぐから発表しつづけた二科会を脱退した後に描いた作品という)を除いては、ほとんどが灰色がかって沈んだ色調の、ずっしりと重い作品ばかりだ。現実の労苦を背負い、けれども決してうちひしがれることなく、がっちりと生きる大きな手足をした女たち、子どもたち。私はやはりメキシコ時代の作品に最も強くひかれるが、戦後の日本で描いた作品もすごいものぞろいだ。かつて、こういう作品を描いた画家が他にいただろうか。

 ところで、私が北川民次の名前を知ったのはいつごろのことだったろうか。清水登之、国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫ら「アメリカン・シーン」の画家の一人としてだったろうか。ほぼ同世代のこの五人の画家は、美校を卒業してパリに留学することが画家として成功するほとんど唯一のコースとされていたような時代にアメリカへ渡った。親が移民でカリフオルニア生まれの野田を除けば四人ともにほとんど十代という若さで渡米し、みずみずしい感受性でアメリカの空気を吸い、生き、描いた。描く対象はその名の通りアメリカン・シーン(アメリカの現実)で、営々と生きる人々の生活をみつめ、その怒りや嘆き、悲しみを表現したのである。

 早稲田の予科を中退して海を渡った北川は国吉らと同じニューヨークのアート・ステューデント・リーグで学んだ後メキシコに渡り、十五年間をその地で過ごした。当時のメキシコは「革命と内乱の十年を経て社会の再建にかかっていた時期で、革命に参加した美術家たち、オロスコ、シケイロス、リベラを中心に壁画運動が展開されていた時代にあたっていた」(浅野徹「北川民次――そのメキシコ時代と帰国後および戦中期の画行」)

 北川自身は次のように書いている。「そこには南国の奇妙な香気ある果物がみのり、バロック、ロココのけんらんたる建造物があり、ささやかながら世界の尖端をゆく思想が生まれているのに、僅々数マイル行けば、ここには文明から取り残された人々が、狩猟時代や農耕時代を偲ばせる部落を造り、それが又全く自然なことのようにさかんに煙をあげている」。

 そんなメキシコで北川は何をしたか。彼はここで自ら描きつつ、子どもの絵のプリミティブな真実さに注目し、児童の美術教育に携わっていたのである。帰国の目的も、日本ではまだだれも考えることのなかった児童美術教育を行うためだったという。

 そんなことども全てを思い起こさせる充実した展観に時の経つのを忘れていると、高校の先生らしき一行五、六人が夫人づれでやって来た。すると、その日は日曜日のため折よく在館していた神谷氏は、私たちに特別に絵巻物を見せて下さるというのである。

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かみや美術館・神谷氏

 「遊行帖」と題するそれは全長十八メートルに及ぶものだが、そんな「宝物」を氏はこともなげに床にするすると広げてゆくのであった。絵はもちろん北川民次、そして墨痕あざやかな文字は神谷氏のもので、言葉も絵も全てアドリブなのだそうだ。美しい花火の絵があり、「故郷を何かと問えば祭りかな」と始まり、「心楽しくその日暮れたり」で終わるその絵はちょっと忘れてしまったが、北川民次という画家と、神谷幸之という法律家でありコレクターでもある人物の打ち解けた清遊ぶりが目に浮かぶような、それは何とも楽しく、見事な絵巻なのであった。

 北川民次の特別展示の4月は水墨画、5月は版画作品だそうである。

住 所: 愛知県半田市有脇町10−8−9  TEL 0569-29-2626
交 通:

名鉄河和線「知多半田」より緑ヶ丘行きバスで「春日山美術公園前」下車徒歩1分

休館日: 展示替え時のみ

星瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。旅行作家協会会員。著書に『桜楓の百人』など。

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