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連載小説 ヒマラヤの虹(最終回) 峰森友人 作 エピローグ ポカラ、バンコク、成田でそれぞれ一泊、日付変更線を越えて四日目にようやく慶太がニューヨーク郊外の自宅に帰り着いたのは十二月二十五日だった。静かな住宅街の家々や前庭に、星粒のようなクリスマスの電飾が付けられ、厳かに夜を彩っていた。 慶太は翌日からオフィスに出て、大晦日の日は慣例で半日のため、午後早く帰宅した。夕方正月特集入りの元旦付け国際衛星版の新聞が前庭に投げ込まれると、それを取ってきた娘がマーラーの交響曲一番を聴いていた慶太の横に来てしばらく読んでいた。が突然、 「まあ、かわいそう」 と呟いた。 「お父さん、マチャプチャレの見えるサランコットの丘で、ボランティアの日本人の女性が転落死したんだって。お父さんもここへ行ったんでしょう?かわいそうに・・・」 娘はこう言って新聞を慶太に渡すと、夕食を準備している母のいる台所に向かった。慶太はその社会面ベタ記事を目で追ってたちまち絶句した。
「日本人女性転落死? ネパール中部ヒマラヤで」 [ ニューデリー支局三十一日]ネパールの首都カトマンズの日本大使館に三十一日昼過ぎネパール警察から入った連絡によると、同日早朝同国第二の都市ポカラの北にあるサランコットの丘の頂上直下の谷に日本人らしい女性が倒れているのをトレッカーが見つけ、ポカラ署に通報した。同署員が現場で確認したところ、女性は全身打撲で死亡していたという。女性は三十代半ば。緑のクルタクロワールに黒のカーデガン、黒のウオーキングシューズ姿。頭には米国製小型ヘッドランプを付けていた。アンナプルナ連峰の夜明けを見るため未明単独登山中、過って転落したらしい。服装やナップザックの所持品から開発援助のボランティアとみられているが、国際協力事業団ポカラ事務所では心当たりがないという。大使館では身元確認のため館員をポカラに派遣した。サランコットの丘は、すぐ正面にマチャプチャレ(六九九七メートル)の峻峰が聳え、その奥に八千メートル級のアンナプルナ連峰が望まれる中部ヒマラヤの展望の名所。
マーラーの第四楽章、管楽器の音が狂ったように鳴り響く中、慶太はなぜ、なぜ、と何度も何度も心の中で叫んだ。やがてオーケストラの大音響は消え、笛のような風の音と共に慶太の目の前に浮かんだのは緑のクルタクロワールに黒のカーデガンを着て、稜線の上に立つ百合の姿だった。百合は慶太の方を向いてにっこり笑うと、すっと宙に舞い上がり、カーデガンで見事に風をとらえてマチャプチャレの頂上目指して飛んで行き始めた。一瞬手を百合の方へ伸ばした慶太は、百合!と声を限りに叫んだ。その声は白い山々にこだましながら百合を追った。百合は一度その声で振り返って再び慶太に微笑むと、またマチャプチャレの頂上目指して、流れるように一直線に飛翔し続けた。
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