|
連載小説 ヒマラヤの虹(22) 峰森友人 作
血がどうにか止まったのを確認してから、トリジャと女の子に助けられて庭に上がり、薪や水牛のえさの草置き場になっている小屋に行って座った。とても歩くことなど出来ない。日が暮れて暗くなってから、女の子がこっそりとダール豆のスープを持って来た。粗末な食器の底にほんの少し入っているだけだった。女の子は、雨が降っている時は、妹三人と弟二人はほとんど何も食べず、いま持ってきたスープだけだと言った。だからインドへ働きに行けば、自分も食べられるし、妹や弟にもご飯を食べさせてやれるから、自分は早く行きたいと言った。父親が怒ったのは、インドでどんな仕事をするのかを知っており、私がそれに触れたからだろう。普通娘の出稼ぎがブローカーとの間で決まると、親は何がしかの金を受け取る。それは例えば一万ルピー、二万円。わずかな金で女の子の一生は犠牲にされる。女の子は、自分も妹や弟も食べられるようになるなら、自分はインドへ行けばどんな仕事でもする。このままでは妹や弟が死んでしまう、そして自分も、と言った。大きな丸い目をしたかわいい子で、私があの痛みを耐えられたのは、この女の子の強さを見たからでしょうね。女の子はエイズの怖さを知らないけれど、飢えの辛さはよく知っている。だから売春でエイズに感染するよりも飢えの方が怖い。そんな十四歳の女の子が見ず知らずの行きずりの男によってエイズや性病の危険にさらされる。これが世界の貧しい国の現実なんですね。 モンスーンが明けて、ポカラの方へ移って来た時、さすがにほっとした。清楚なマチャプチャレの姿は汚されず、春と変わらなかった。 「この山を見ると本当に心が洗われる気がします。それに収穫期にもなりましたから、それなりに村でも活気が出て・・・。どこへ行っても、ダールバートの食事のお金も取ってくれなくって。ひどい目に遭うより、村人たちの善意に打たれることの方が、ずっと多いんですよ」 かまどの火はいつしかすっかり灰となったのか、かすかにあった明かりも途絶え、部屋は真っ暗になっていた。ファスナーを開いたままの慶太の寝袋にも寒気がこっそり忍び込んできた。
「トリジャについて、美穂子さんから気の毒な話しを聞きました。別れた亭主がエイズで死んだって」 「まあ、美穂子さんはそのことお話ししたんですか」 百合が驚いた声を出した。 「私は、それだけは、だれにも知られたくなかったんですけど・・・」 「美穂子さんの話しでは、別れた夫がエイズで死んだから、トリジャも自分はエイズに感染していると信じ込んでいるって・・・」 「そうなの、トリジャは私との生活の前からエイズについてはかなりの知識を持っていたけど、私が女の子たちにエイズがどのようにして感染するか、いろいろ教えていたので、ますます知識が出来た。それで夫のことを聞いたでしょう。だから・・・ね。美穂子さんと相談して、ともかくカトマンズで検査を受けさせることにしているんだけど・・・」 しんみりとこう言った百合はじっと暗闇に目を据えているのが気配で分かる。百合は黙ってしまった。慶太にはなぜ百合が口をつぐんでいるのか、分からなかった。様子をうかがっていると、百合が大きな溜め息をついた。だがやはり口を開かず、闇を見据えたままである。 「どうか・・・」 したのかと慶太が聞こうとした時である。百合がまた一つ大きな溜め息をついた。かと思うと、 「あの・・・そちらに行っても・・・いいですか」 と言った。突然のことで、慶太には意味が分からなかった。 「佐竹さんのそばに、行っても、いいですか」 百合は消え入るような声でまた言った。慶太はやはり返事が出来なかった。 「私、怖いんです。私・・・」 百合の言葉に慶太が驚いていると、百合はいきなり自分の寝袋のファスナーを下ろし、下着だけの体を慶太の寝袋の中に投げ込んできた。何が起ころうとしているのか見当のつかないまま、慶太は左腕を百合の腰に回すと、抱きかかえるようにして自分の寝袋に招き入れた。百合のつけているのは下も短い下着だけだった。百合は両腕を胸の前でたたんだまま、慶太に体を寄せると、声を詰まらせながら、 「抱いて下さい」 と言った。慶太は自分の体をずらせて百合のまわりに少し余裕をつくると、ゆっくりと百合の背中に腕を回した。アメリカ人の体格に合わせて作られた寝袋は、百合が入ってもまだ余裕があった。慶太は右腕を寝袋から出すと、それに百合の頭を乗せた。二人の体はやっと落ち着いた形になった。百合の髪が慶太の鼻のすぐ下にある。かすかに石鹸の匂いがした。二人はそうしてしばらく抱き合っていたが、百合がまた溜め息をついて、 「すみません」 と言った。百合は腕を胸にあてているため、慶太の胸と百合の胸が触れることはなかった。慶太は百合の体に回した腕に少し力を入れて百合を引き寄せると、 「どうしたのですか」 と、やっと口を開いた。 「すみません、私、もうだめなんです」 慶太は黙って次の言葉を待った。またしばらく沈黙があった。 「私も、エイズかも知れないんです・・・。いえ、多分・・・そう・・・きっとそうなんです」 百合は決心したように言うと、一つ大きく息を吸った。 余りにも意外な言葉に、慶太は百合の顔を見ようとして自分の頭を後ろに引いたが、自由の効かない寝袋の中では髪に触れている口が少し離れただけで、すぐには百合の顔を見ることが出来なかった。その代わりに慶太は腕にさらに力を入れて、百合を引き寄せた。その力で胸が苦しくなった百合はたたんでいた右腕を伸ばすと、そっと慶太の脇から背中へ回した。二人は初めて胸を合わせて、抱き合った。百合は顔を上げて慶太を見ようとした。がすぐその顔を慶太の胸に埋めた。 「こうして抱いていただくだけなら、エイズはうつりませんわね?」 百合は確認するように聞いた。 「当たり前じゃないの。君がエイズだなんて、真剣な声で言うと、びっくりするじゃないか」 慶太がたしなめるような口調で言った。 「でも本当なんですもの」 「だってあり得ないことだろう。まさか君とトリジャが・・・」 「いいえ、誤解しないで下さい。そんなんじゃないんです」 「なのにどうして君が・・・。けがをした時、輸血をしたわけでもないんだろう?」 慶太は苛立ちから声を荒げた。大事なものが自分の知らない間に壊されてしまったような、そんな腹立たしさが込み上げてきたからだった。 「輸血もしていません。でも私は気がついたとき、大きな失敗をしていたんです。人には偉そうに注意していながら・・・。でもその時は、必死だったんです・・・」 百合は泣き出した。涙が慶太の胸のシャツをたちまち濡らした。生暖かい湿気が慶太の肌に伝わってくる。涙と同時に、百合が慶太の胸に押し付けている口からも百合の体温が熱い息になって伝わった。いつのまにか二人の足も絡み合っていた。 「僕には君の言っていることが分からない。どうして君のような人がエイズになるんだ。君がどんな間違いをしたって言うの?」 慶太は更に百合を引き寄せ、叱責するように言った。百合の顔を見るために、左手を百合の顎に当て、顔を上に起こさせた。熱い息が顔全体にかかった。慶太は百合の頬の涙を唇で掬った。二度、三度。しかし百合は激しく首を振ると、また慶太の胸に顔を伏せた。しばらく鳴咽が続いた。慶太は再び百合の顎に手を当て、顔を上げさせた。 「一体何が起きたって言うの?僕には君の言っていることが理解出来ない。聞いても何もしてあげられないかも知れないけれど、今度ばかりは聞きたい」 慶太は、ますますいとおしむように百合を引き寄せ、やさしく抱いた。何度も何度も大きな息を吸って、百合は鳴咽を鎮めようとした。慶太のシャツをつかんだ手も小刻みに震えた。沈黙が続いた。慶太はまた百合の顔に唇を寄せ、頬の涙をぬぐおうとしたが、百合はそれをさせないように首を振った。 「すみません。静かにお話ししなければいけないことなのに、こんな風になってしまって・・・。でも、もう大丈夫です。お話し出来ます。本当は佐竹さんにはいつまでも知られずにいたかった・・・。でもお話し出来るようになって、かえってよかった。美穂子さんもこのことは知らないんです。話しておりません。だから佐竹さんが最初・・・」 百合はこう言うと、また腕を胸の前に合わせて、二つのこぶしの上に顎を乗せるようにして苦しそうに震えた。が、やがてゆっくりと話し始めた。 このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 |