1998年(平成10年)9月20日(旬刊)

No.52

銀座一丁目新聞

 

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ヒマラヤの虹(22)

峰森友人 作

 さっきモンスーンが来てから、カトマンズ周辺の丘陵地にいたとお話ししましたでしょう。あのあたりでは十二、三歳の女の子まで、インドに出稼ぎに出される。毎年約七千人と言われる。最初私は、出稼ぎに行くのは昔日本でもあったように、家事のような仕事とか、家内工業だと思っていた。ところが多くのケースは、インド人のブローカーの口車に乗せられて、デリーやボンベイの売春街へ連れていかれる。まだ本当に子供なんです。それが分かって、一体どんなところで働かされているのかを見るため、トリジャと一緒にデリーとボンベイへ汽車で出かけました。佐竹さんへのお手紙は実はその時持って行って出したのです。カトマンズからでも出せないことはないが、ネパールにいることを知らせたくなかったので。

 ボンベイの売春街へ行くと、粗末な家の一階はインド人の女性がインド人相手に売春をする。そしてその二階には売られたも同然のネパールから来た女性がいて、一階のインド人女性を相手に出来ないもっと貧しいインド人とか出稼ぎのネパール人を相手にする。金額は十ルピーとか二十ルピー、日本円でわずか二十円とか四十円なの。そしてコンドームは使わない。だから今ネパールで深刻な問題になっているのはエイズ問題。出稼ぎの男たちがエイズウイルスに感染して帰ってくる。それが家族に移される。ボンベイへ行った売春の女の子たちは客からエイズが感染しているのが検査で分かると、わずかの旅費だけで追い出される。村にもいられなくて、ムグリンのようなハイウエー沿いの町でまた売春を始める。それでないと、食べていけない。カトマンズの政府直轄の病院のエイズ問題の責任者にもインタビューしました。一九九五年の公式記録は、発症者五十一人、死亡者二十八人。でも実際の発症者や死亡者ははるかに多く、感染者の推定は一万人だという。予防対策が行き届かないため、ネパール国内の売春宿も感染の温床になっている。その病院で聞いたのだが、インドでの売春でエイズになって発症した女性の中には十歳の女の子も含まれていた。

 美穂子さんからはのめり込んだらだめと言われた。でも私は若い女の子たちに何かしてあげたかった。村で女の子が学校に通っているかどうかなど聞いているうちに、まもなくインドに出稼ぎに行くというようなことが分かる。それでそれとなく男と接する時は必ずコンドームを使うようにって教え始めた。ネパールでは村のヘルスポストへ行けば、アメリカ政府協力のコンドームが自由に手に入る。それで私はそれをいくつか持っていて、女の子たちにそれを見せながら、使い方を教えた。女の子たちは出稼ぎ先をほとんど知らないまま、インドへ行く。だから売春街と分かった時に、ふっと思い出して役立ててくれればと思って。でも七月の半ば、とってもつらい目に遭った。トリジャとカトマンズの北のヌバコットという村に行った時です。

 

 百合はしばらくじっと天井を見ていたが、やがてまた口を開いた。声は重苦しくなり、今までよりずっとゆっくりと、当時を目の当たりに思い出すような口振りになった。

 

 ヌバコットは東のシュンデュ・バル・チョクと西のダーディンと並んで、インドへ出稼ぎに出る、つまり売春宿に売られていく女の子が多いことで知られている三つの地域の一つです。そこである日十四歳の女の子がまもなく出稼ぎに行くことが分かった。午後でモンスーンの雨が降っていた。家の一番端の物置部屋で、インドへ行ったら、どんなに苦労でも、売春宿での仕事は避けるように、と話していた。十四歳というと、早い子は結婚したりするので、売春の話しも分かる。その子は学校はほとんど行ってなかったが、頭のよさそうな子だった。私が話し、トリジャが通訳していると、突然その子の父親が入ってきて、何か怒鳴りながら、私のクルタの襟をつかんで外へ引きずり出した。いつのまにか父親は部屋の外の軒下で立ち聞きしていたのでしょう。

 「子供に一体何を教えようと言うんだ」

 という意味のことを怒鳴った。庭に突き飛ばされた私は、転んだはずみで、庭からさらに一、二メートル下の畑へ転がり落ちた。何が起きたかしばらくは分からなかった。右脇が痛いのでそこへ左手を持っていったら、クルタが裂けて、下の肌着がどす黒くなっている。肌着の下へ手をいれたら、べとっとしている。その手を見たら、真っ赤な血がついていた。

 瞬間私は子供の時母がよく言っていたことを思い出した。けがをして血が出始めたら、まずその傷口をしっかり押さえて血を出さないこと。少しでも血が出ると、その分傷が深くなる。それで私は畑にしゃがみ込んだまま、脇をじっと押さえていた。トリジャと娘も飛んで来て、ずぶ濡れになって泣いた。

 私は転がり落ちる時、庭の土台石に脇を打ちつけ、そこが裂けたのだった。母の教えどおりにしたからか、持っていたメンソレータムを壁のように塗り付け、その後もメンソレータムを塗り続けていたら、傷は悪化せずに治ったが、大きな跡が残った。

 

 「私もとうとう体にも傷を持つ女になってしまいました」

 自嘲気味にこう言った百合は、寝返りを打って慶太の方を向いた。

 「その傷見てくれますか?」

 と言ったかと思うと、寝袋の中で上半身を起こし、白い半袖の下着をパっと頭から脱いだ。驚いて起き上がった慶太の前に、百合が上半身裸で座っている。かまどからのかすかな明かりが斜め後ろから百合の体をほんのりと浮き上がらせた。右腕を上げた百合が、

 「ここです」

 と言って、左手で傷を指した。慶太は見てはいけないものが目の前にあるような気がして、自分ではしっかりと見ることが出来なかった。逆光になったかまどからの明かりも、慶太に傷を確認させるには十分ではなかった。それに気付いたのか、百合は左手を伸ばして慶太の右手を取ってそれを傷口に誘導して触らせた。慶太は恐る恐る谷のように窪んだ傷跡の溝に沿って上から斜め前下へゆっくりと人差し指と中指でなぞっていった。二度、三度それを繰り返した。その度に慶太の小指が右胸の膨らみをかすっていく。百合はそれにピクッ、ピクッと反応した。傷痕は十センチ近い長さだった。肋骨に損傷がなかったのが幸いしたのだろう。慶太がそっと手を離した。百合は無言でそのままの姿勢で座っていたが、やがて下着を頭からかぶって着ると、また横になった。

 

 血がどうにか止まったのを確認してから、トリジャと女の子に助けられて庭に上がり、薪や水牛のえさの草置き場になっている小屋に行って座った。とても歩くことなど出来ない。日が暮れて暗くなってから、女の子がこっそりとダール豆のスープを持って来た。粗末な食器の底にほんの少し入っているだけだった。女の子は、雨が降っている時は、妹三人と弟二人はほとんど何も食べず、いま持ってきたスープだけだと言った。だからインドへ働きに行けば、自分も食べられるし、妹や弟にもご飯を食べさせてやれるから、自分は早く行きたいと言った。父親が怒ったのは、インドでどんな仕事をするのかを知っており、私がそれに触れたからだろう。普通娘の出稼ぎがブローカーとの間で決まると、親は何がしかの金を受け取る。それは例えば一万ルピー、二万円。わずかな金で女の子の一生は犠牲にされる。女の子は、自分も妹や弟も食べられるようになるなら、自分はインドへ行けばどんな仕事でもする。このままでは妹や弟が死んでしまう、そして自分も、と言った。大きな丸い目をしたかわいい子で、私があの痛みを耐えられたのは、この女の子の強さを見たからでしょうね。女の子はエイズの怖さを知らないけれど、飢えの辛さはよく知っている。だから売春でエイズに感染するよりも飢えの方が怖い。そんな十四歳の女の子が見ず知らずの行きずりの男によってエイズや性病の危険にさらされる。これが世界の貧しい国の現実なんですね。

 モンスーンが明けて、ポカラの方へ移って来た時、さすがにほっとした。清楚なマチャプチャレの姿は汚されず、春と変わらなかった。

 「この山を見ると本当に心が洗われる気がします。それに収穫期にもなりましたから、それなりに村でも活気が出て・・・。どこへ行っても、ダールバートの食事のお金も取ってくれなくって。ひどい目に遭うより、村人たちの善意に打たれることの方が、ずっと多いんですよ」

 かまどの火はいつしかすっかり灰となったのか、かすかにあった明かりも途絶え、部屋は真っ暗になっていた。ファスナーを開いたままの慶太の寝袋にも寒気がこっそり忍び込んできた。

 

 「トリジャについて、美穂子さんから気の毒な話しを聞きました。別れた亭主がエイズで死んだって」

 「まあ、美穂子さんはそのことお話ししたんですか」

 百合が驚いた声を出した。

 「私は、それだけは、だれにも知られたくなかったんですけど・・・」

 「美穂子さんの話しでは、別れた夫がエイズで死んだから、トリジャも自分はエイズに感染していると信じ込んでいるって・・・」

 「そうなの、トリジャは私との生活の前からエイズについてはかなりの知識を持っていたけど、私が女の子たちにエイズがどのようにして感染するか、いろいろ教えていたので、ますます知識が出来た。それで夫のことを聞いたでしょう。だから・・・ね。美穂子さんと相談して、ともかくカトマンズで検査を受けさせることにしているんだけど・・・」

 しんみりとこう言った百合はじっと暗闇に目を据えているのが気配で分かる。百合は黙ってしまった。慶太にはなぜ百合が口をつぐんでいるのか、分からなかった。様子をうかがっていると、百合が大きな溜め息をついた。だがやはり口を開かず、闇を見据えたままである。

 「どうか・・・」

 したのかと慶太が聞こうとした時である。百合がまた一つ大きな溜め息をついた。かと思うと、

 「あの・・・そちらに行っても・・・いいですか」

 と言った。突然のことで、慶太には意味が分からなかった。

 「佐竹さんのそばに、行っても、いいですか」

 百合は消え入るような声でまた言った。慶太はやはり返事が出来なかった。

 「私、怖いんです。私・・・」

 百合の言葉に慶太が驚いていると、百合はいきなり自分の寝袋のファスナーを下ろし、下着だけの体を慶太の寝袋の中に投げ込んできた。何が起ころうとしているのか見当のつかないまま、慶太は左腕を百合の腰に回すと、抱きかかえるようにして自分の寝袋に招き入れた。百合のつけているのは下も短い下着だけだった。百合は両腕を胸の前でたたんだまま、慶太に体を寄せると、声を詰まらせながら、

 「抱いて下さい」

 と言った。慶太は自分の体をずらせて百合のまわりに少し余裕をつくると、ゆっくりと百合の背中に腕を回した。アメリカ人の体格に合わせて作られた寝袋は、百合が入ってもまだ余裕があった。慶太は右腕を寝袋から出すと、それに百合の頭を乗せた。二人の体はやっと落ち着いた形になった。百合の髪が慶太の鼻のすぐ下にある。かすかに石鹸の匂いがした。二人はそうしてしばらく抱き合っていたが、百合がまた溜め息をついて、

 「すみません」

 と言った。百合は腕を胸にあてているため、慶太の胸と百合の胸が触れることはなかった。慶太は百合の体に回した腕に少し力を入れて百合を引き寄せると、

 「どうしたのですか」

 と、やっと口を開いた。

 「すみません、私、もうだめなんです」

 慶太は黙って次の言葉を待った。またしばらく沈黙があった。

 「私も、エイズかも知れないんです・・・。いえ、多分・・・そう・・・きっとそうなんです」

 百合は決心したように言うと、一つ大きく息を吸った。

 余りにも意外な言葉に、慶太は百合の顔を見ようとして自分の頭を後ろに引いたが、自由の効かない寝袋の中では髪に触れている口が少し離れただけで、すぐには百合の顔を見ることが出来なかった。その代わりに慶太は腕にさらに力を入れて、百合を引き寄せた。その力で胸が苦しくなった百合はたたんでいた右腕を伸ばすと、そっと慶太の脇から背中へ回した。二人は初めて胸を合わせて、抱き合った。百合は顔を上げて慶太を見ようとした。がすぐその顔を慶太の胸に埋めた。

 「こうして抱いていただくだけなら、エイズはうつりませんわね?」

 百合は確認するように聞いた。

 「当たり前じゃないの。君がエイズだなんて、真剣な声で言うと、びっくりするじゃないか」

 慶太がたしなめるような口調で言った。

 「でも本当なんですもの」

 「だってあり得ないことだろう。まさか君とトリジャが・・・」

 「いいえ、誤解しないで下さい。そんなんじゃないんです」

 「なのにどうして君が・・・。けがをした時、輸血をしたわけでもないんだろう?」

 慶太は苛立ちから声を荒げた。大事なものが自分の知らない間に壊されてしまったような、そんな腹立たしさが込み上げてきたからだった。

 「輸血もしていません。でも私は気がついたとき、大きな失敗をしていたんです。人には偉そうに注意していながら・・・。でもその時は、必死だったんです・・・」

 百合は泣き出した。涙が慶太の胸のシャツをたちまち濡らした。生暖かい湿気が慶太の肌に伝わってくる。涙と同時に、百合が慶太の胸に押し付けている口からも百合の体温が熱い息になって伝わった。いつのまにか二人の足も絡み合っていた。

 「僕には君の言っていることが分からない。どうして君のような人がエイズになるんだ。君がどんな間違いをしたって言うの?」

 慶太は更に百合を引き寄せ、叱責するように言った。百合の顔を見るために、左手を百合の顎に当て、顔を上に起こさせた。熱い息が顔全体にかかった。慶太は百合の頬の涙を唇で掬った。二度、三度。しかし百合は激しく首を振ると、また慶太の胸に顔を伏せた。しばらく鳴咽が続いた。慶太は再び百合の顎に手を当て、顔を上げさせた。

 「一体何が起きたって言うの?僕には君の言っていることが理解出来ない。聞いても何もしてあげられないかも知れないけれど、今度ばかりは聞きたい」

 慶太は、ますますいとおしむように百合を引き寄せ、やさしく抱いた。何度も何度も大きな息を吸って、百合は鳴咽を鎮めようとした。慶太のシャツをつかんだ手も小刻みに震えた。沈黙が続いた。慶太はまた百合の顔に唇を寄せ、頬の涙をぬぐおうとしたが、百合はそれをさせないように首を振った。

 「すみません。静かにお話ししなければいけないことなのに、こんな風になってしまって・・・。でも、もう大丈夫です。お話し出来ます。本当は佐竹さんにはいつまでも知られずにいたかった・・・。でもお話し出来るようになって、かえってよかった。美穂子さんもこのことは知らないんです。話しておりません。だから佐竹さんが最初・・・」

 百合はこう言うと、また腕を胸の前に合わせて、二つのこぶしの上に顎を乗せるようにして苦しそうに震えた。が、やがてゆっくりと話し始めた。

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