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小さな個人美術館の旅(48) 三岸好太郎美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 「私は常に絵を描くことに、非常に大きな幸福を感じて居ります。限りなく、一つもさまたげなき広々とした歓びであります。たとへ、実生活が如何に重く息苦しいものであっても、否、重く苦しいものであればある程、この描くことの朗らかな、また愛しい歓びを味ひます」 三岸好太郎は第二回春陽会展で「兄及ビ彼ノ長女」など四作が入選、春陽会賞を首席で受賞した際に感想を求められてそう書いた。1924年(大正13)のことだが、当時は二科、春陽会など大きな展覧会への入選、受賞の社会的反響は今日では考えられないほど大きく、二十一歳の好太郎はまさに彗星のごとく中央画壇に登場したのである。 けれども札幌一中を卒業し、上京して新聞配達や郵便局の臨時雇いなどをしながら暮らしはじめたのは、そのわずか三年前のこと。特賞の前年の第一回春陽会展には友人の絵具を借りてカルトンに描いたという「レモン持てる少女」が二千点を越える応募作の中から入選、すっかり気をよくした母が妹をつれて札幌から出てきてしまったため、その生活はまさに「赤貧洗うがごとき」ものであったらしい。 「三岸さんは絵はうまいけれど、ああ汚なくてはね」と女子美の学生の間でも評判だった好太郎をその家に訪ねた後の節子夫人は、そのあまりの貧しさに感動して結婚を決意したというが、そんな生活にもかかわらず作品にはおさえてもおさえきれぬ自然の詩情があった。上記の文章は次のように続いている。「静かに朗らかな雰囲気、又その内に浮漾する或る唐突さを感じさせるグロテスクな、又フアンタスティックな感じ、さういふ味が私の表現したいものであるような気がします」 静かに朗らかな雰囲気やフアンタスティックな感じは、草土社風の暗い色調やアンリ・ルソーばりのプリミティブな作風で描いた初期の作品にもすでにあらわれていて、その後いくたびかの画風の変遷を経て、最後の年となった1934年、「海と斜光」「海洋をわたる蝶」など一連の作品に見事に結実させて、自ら描く海に飛び立つ蝶のように短い生涯を終えたのが三岸好太郎だった。そして、そんなことどもを心にしみて感じさせ納得させてくれるのが、ここ三岸好太郎美術館なのである。
隣接する知事公館の広大な庭園がそのまま美術館の庭へとつづく美しいたたずまいだ。涼しい風の吹き抜けるニレの林の小道を小川に沿って進むと玄関前に出た。油彩、水彩、素描など遺作220点の寄贈を受け、美術館が開館したのは1967年のことだ。はじめは北海道立美術館(三岸好太郎記念室)としてスタートし、十年後、北海道立近代美術館の開館にともない三岸好太郎美術館と名称を変更、さらに五年後の83年、新館を建築して再スタートした。開館に先だって書かれた洋画家三岸節子の文章は、その間の事情や好太郎の生涯を張り詰めた調子で私たちに伝えてくれる。 「……三岸好太郎の私の処にありました全作品を、先年、北海道札幌に寄贈いたしましたのは、好太郎が愛してやまなかった故郷の風土の中に作品をおきたいがためでした。 かつて、私をはじめて札幌に連れてまいりました時、まず最初に案内いたしましたのが北大構内でありました。広々とした緑の芝生の起伏、清らかな流れ、ニレの大木がそびえ、ポプラ、アカシヤ、原始林、雄大な北方の大自然こそ、好太郎の人間性を育み詩情をつちかった風土でありました。…… 好太郎三十一歳の生涯は中学時代に父を失い、やがて母と妹を、妻を、三人の子供を抱えた一家の重責をにない、画生活は春陽会をへて独立と、大正の終り、昭和の初め、フランス絵画の前衛が疾風怒濤の時代、これにうち勝ち征服するため全身全霊を傾けて闘いつづけ、ついに力尽きて玉砕したのであります。 いわば三岸記念館は好太郎の無念の魂を鎮めるための、妻の捧げる餞けの美術館であります」(「南仏カーニュの偶居から」) ル・コルビュジェの前衛的な建築理論に関心のあったという好太郎は、死の年には斬新なスタイルによる自分のアトリエの建築計画に夢中になっていた。独立展に出品した「のんびり貝」が売れると、その金で節子夫人と「貝殻旅行」に出かけて京都、奈良、大阪を回り、さらに建築資金集めのために夫人と別れて立ち寄った名古屋で倒れ、わずか四日の後に卒然として世を去ったのである。その好太郎のアトリエのイメージをとりいれたという白亜の美術館である。中へ入ると何と幸運なことか、一階の展示室では折しも三岸の絶唱ともいうべき「蝶と貝殻――三岸好太郎の夢と視覚詩」が開催中だった。
「旅愁」「海洋を渡る蝶」「海と斜光」……。いずれも蝶と貝殻をモチーフに描かれたその作品群は、むかし鎌倉の近代美術館でも見たことがあったが、こんどもまた私をその前に貼りつけにした。この世界をいったいなんと表現したらいいだろう。一点の曇りもなく澄んだ青い海と空、飛んでゆく蝶、真珠色に輝く砂浜、横たわる裸婦。全てはこの世のものとは思われぬ明るい光に照らしだされ、しかもどこかに憂愁の翳を帯びた、白昼夢のような世界だった。自らのためのレクイエムを書いで死んだモーツアルトのように、三岸好太郎もまた死の直前まで憑かれたようにエネルギーを爆発させて一気にこれらを描き、「生き、愛し、描いた」という節子夫人の言葉そのままにその生を燃焼しつくして遠く飛び去ったのである。真に生まれながらの画家とはこういう人を指すのであろうか。 北海道を駆けめぐった今回の取材旅行の最後に、再びこの画家にめぐり会えた幸せをかみしめながら外へ出ると、森の中にはわずかに夕日が射し、ひぐらしが鳴いていた。それは短い北海道の夏への、あるいはこの比類のない画魂への挽歌のように聞こえた。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |