東京・吉祥寺の古本屋でふっと新保祐司著「信時潔」(構想社)が目についたので買った(2月3日)。昨年4月に出たので古本とはいえない。読んだ形跡も見られない。新品同然であった。手元にある軍歌集「雄叫」にものっている。歌詞は「海行かば水漬くかばね/山行かば草蒸すかばね/大君の辺にこそ死なめ/のどには死なじ」とある。(将官に対する敬礼に用いた)とある。この歌は明治13年はじめ正式軍歌として制定されたもので、曲は東儀末芳。一般に広く歌われているのは昭和12年信時潔作曲のもので、終行は「かえりみはせじ」となっていると注釈がついている。この歌詞はもともと萬葉集の大伴家持の作品からとられた(萬葉集4094)。陸軍士官学校校歌の最後の8番の歌詞にも「ああ、山行かば草蒸すも/ああ、海ゆかば水漬くとも/など顧みんこの屍・・・」と引用されている。私は初めからこの曲は鎮魂の曲だと思っていた。著者の新保さんは「『海行かば』は明治維新から始まった近代日本の終局である大東亞戦争の最中に響き渡った、日本及び日本人への萬葉集までさかのぼって回想された鎮魂曲であった」と言っている。小津安二郎監督の「父ありき」(昭和17年制作・松竹大船))にも内田吐夢監督の「血槍冨士」(昭和30年・東映京都)にも遺骨が出てくる場面に「海ゆかば」が流れるのは名曲だからであろう。もっとも「父ありき」が戦後上映された時にはGHQの指示でこの曲はカットされた。
新保さんは斎藤緑雨の『音楽は即ち国のささやきなり』を引用して戦時中の「海ゆかば」はまさに「国のささやき」であったと評している。
作家、坂田寛夫は「海ゆかば」を賛美歌のように響いたという印象をもったとある本に書く。これは無理もない。信時潔は明治20年12月、牧師の家に生まれ、和洋混合の音楽的雰囲気の中で育つ。18歳の時東京音楽学校に進み、大正12年には音楽学校の教授となる。日本放送教会の委嘱で「海ゆかば」を作曲したのは五十歳の時であった。軍歌に詳しい八巻明彦さん(陸士61期)はこの歌は「凛たる武人の覚悟を表明した戦いの歌」だという。昭和12年10月、その夏に勃発した支那事変の拡大に対応して起こった国民精神総動員の運動の中で生まれた。臨時ニュースで開戦を伝えた昭和16年12月8日の午後6時半から東京放送管弦楽団と同合唱団による「合唱と管弦楽」を放送。番組の一番はじめの曲目が「海ゆかば」であった。この歌は国民の戦時中のテーマソングの役割を果たしたとする。「国のささやき」ゆえにその一面を持つであろう。曲そのものはレイクエムだと思う。信時潔の次男、次郎さんの言葉がこの本に紹介されている。「あのひびきが辛い面に結びつきまして―わたしなんか普通の感じでは聴けませんが、―あの言葉によくあの音をつけたなと、そのことには一寸感心しますね。あれは信時潔の音ですね。いろんな意識の層が父にもあるんですが、一番深いところから、ぎゅっとひっぱり出した、そんなところで極まったんじゃないかと思いますが」
信時潔は昭和40年8月、死去。享年77歳であった。全然読まれないまま古本屋行きの「信時潔」が偶然私の手に入ったのは剛毅朴訥の「古武士」が私を招いたからであろう。
(柳 路夫) |