2006年(平成18年)2月10日号

No.314

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安全地帯(135)

信濃 太郎

 「男たちの大和」を読む

 映画「男たちの大和」を見て辺見じゅんの同名の本(ハルキ文庫上、下・2005年8月18日11刷発行)を買った。吉田満著「戦艦大和ノ最期」をすでに読んでいたので必要ないと思っていた。間違いであった。感銘深く読んだ。辺見さんの本の出だしは昭和16年12月8日開戦の日、呉市長の逮捕から始まる。吉田さんの本は「1730(5時半)、突如艦内スピーカー「候補生総員退去」である。「気負ッテ赴任シキタリシヨリ僅カニ2日ナルモ、彼ラナオ春秋ニ富ム 決死行ニ拉致スルニ忍ビズ」昭和20年3月30日卒業した海兵74期ならびに経理学校、機関学校の少尉候補生49名は涙をのんで退艦した。海兵74期は陸士では59期である。59期生の私には彼らの無念さが痛いほどわかる。戦艦「大和」は昭和20年4月7日片道の燃料を積んで沖縄に特攻作戦に出陣、敵の延べ386機の飛行機により徳之島沖で爆沈した。副砲長清水芳人少佐が連合艦隊司令部へ提出した戦闘詳報には次のようにある。「戦況逼迫セル場合ニハ、兎角焦慮ノ感ニカラレ、計画準備ニ余裕ナキヲ常トスルモ、特攻兵器ハ別トシテ今後残存駆逐艦ヲ以ッテ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿蜜ニ行フ要アリ。『思イ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモミスミス徒死セシムルニ過ギズ」。思い切ったことを書いている。
 艦では「士官は同居人だが下士官や兵は家族である」(特務士官家田政六)。沖縄戦には「大和」には3332人が乗っていた。その9割が下士官兵である。その主人公は内田貢である。小学校出た時にはすでに講道館の柔道初段で海兵団入団前には5段であった。山本五十六大将に可愛がられ短刀まで頂く。上等兵曹から金具のついた消防ホースで殴られた時逆にその上等兵曹を殴り倒してしまう変わり者であった。昭和19年10月26日、シブヤン海を抜けたところで敵機の空襲で炸裂した破片で左眼をやられ、尻から股にかけて銃弾が貫通する重傷を負う。戦死者と間違えられそうになるが呉の海軍病院に入院する。
 爆沈した「大和」の生還者は278名を数える。中島銀三は助からないはずの最下甲板にある機銃の弾庫にいた。中島は海中に巻き込まれた際、気を失った。突然、馬に乗った侍が現れた。二人の侍は長い槍を持ちものも言わずに中島さんを睨み据えた。二人の侍が消えたとたん、中島は息を吹き返した。気がつくと海面に浮いていた。戦後父親にその話をすると「先祖が侍だったから導いてくれたのだろう」といった。泉本留夫は最期だと思った時、故郷の氏神である弁財天が眼前に現れて助かっている。生死の境に理屈では考えられない現象が起きる。変わりものの内田は病院を脱走して松葉杖を突いて「大和」へ戻る。唐木正秋の三連装機銃を手伝ううち敵の第二波攻撃で負傷する。誰かが内田の体を丸太でくぐった。八杉康夫は高射長川崎勝己少佐が脇に抱えていた円材をわたされて助かった。川崎少佐は救助の駆逐艦とは別の方向へ姿を消したという。戦後内田は戦災孤児11人を引き取り3人を自分の籍に入れた。体には130余の鉄の破片がある。幾度となく手術をした。そのつど生死をさまよう。内田が死んだのは2002年3月7日で、享年83歳であった。娘の牧子さんが父の遺言で鹿児島県枕崎からチャーターしたヘリで東シナ海の沈没地点でハンカチに包んだ父の骨を海に流す。「内田兵曹、只今、帰りました」と父に代わって敬礼をした。
 久し振りで泣く映画を見た。

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