北海道物語
(29)
「雪まつり・冬まつり」
−宮崎 徹−
2月は、札幌雪まつり・旭川冬まつりの月だが、今月に入って札幌・小樽は旭川に比べて大雪が続いて、雪像造りが大変な様だ。折角の雪の美女の肌も吹き付ける雪が多いとあばた状に成り、芸術性の高い札幌の雪像は美しい雪化粧を作るので忙しい。
札幌の大雪像は陸上自衛隊の第11師団、旭川は第2師団が担当している。札幌では昭和30年に発足して間も無い自衛隊が初めて参加したのだが、当時の北海道は米ソ対決の前線基地となり、自衛隊の配置も北海道は重点だった。しかし戦後の北海道は革新性が強く、社会党の網領では自衛隊は憲法違反である。その違憲の自衛隊が札幌の目抜き通りの大通公園で観光行事の雪像造りかと、批判と云うよりも非難する声もあったが、氷点下の続く一月に運ばれたうず高い雪が造形化されて行く技術的興味と、零下十度近い眞冬日の夜、ライトの下で孜々黙々と作業に励む隊員の姿とに、市民の多くは感謝し、住民の風当たりは減っていった。観光というより市民の冬のレジャーとしての協力が、年月の間に自衛隊のイメージアップに貢献したのである。民間市民団体も色々なアイデアで参加したが、大雪像はインパクトが強く、たちまち名物となった。
旭川の場合は既に札幌の前例の評価があるので、昭和42年冬まつりの時から自衛隊の雪像参加があった。ただ旭川は昭和37年に革新市政となっていたので自衛隊の市街地からの移設の声などもあって、師団の立場も難しかったろう。この時に当たっては、従前からあった自衛隊協力会という組織を強化し、それが中心となって自衛隊に要請する形をとった。旭川の師団には幾つかの連隊があってそれぞれ管轄の地域が決まって居り、その地域内で風水雪害などがあると、民政支援と云う命令で出動する。30年、40年代は道内の治山治水も十分ではなかったので良く出動した。従ってそれらの町村にも協力会があって一般には市長村長が会長である。旭川市では自衛隊を建前として否定する革新市長が筆頭会長になるのは双方共困るので民間から会長が出て、例えば冬まつりでは協力会が代表となり、市の助役と一緒に支援の要請を行ったのである。
当時は米ソ対決の眞最中だった。自衛隊は国土防衛が第一義で、そんな暇はないと杓子定規な答えを云われないためには、協力会の組織も大事だと云うことで、嘗ての軍学校の生徒の経歴を持つ私も役員の一人に推された。戦前の師団の某将校が好きだったと云う小母さんや、勲章を持つ老人達が主で、昔話ばかりしている協力会を若返らせて、市民参加の層を厚くしたいと、若い人達にも呼び掛けて組織を拡げて行った。ソ連が上陸して来たらシベリアに拉致されるぞと冷やかす友人も居る時代で、利巧な人達は何とはなく距離を置く時代だった。
一種のボランティアでしかないが、それだけに利害関係のない自衛隊員の気持ちもよく聞かされることがあった。歴史の浅い自衛隊員には、市民権を与えられないこころの不満が有るが、それでも立派な雪像をつくって市民をびっくりさせたいという意地もある。幹部はこういう雪像やすべり台で、子供に北国に生まれた悦びを持たせるようにしたいと思う。隊員はみな悩みも、不満も、不安もあったが、親しまれる自衛隊になりたいのだった。
折角の大雪像も期間が終われば、崩して跡形もない。砂上の楼閣ならぬ雪の幻影である。そう言う努力を空しさだけに終わらせず、今日の冬まつりの基礎を彼等は何十年もかけてつくって来たのであった。
米ソ冷戦の解消という国際情勢の変化に伴い、北海道の自衛隊にも変化があり、道内の定員も減少に向かっている。第11師団も半分の規格の旅団に変わる予定である。国民の理解も深まる半面、信頼される強い自衛隊の要望が強まってきた。雪まつり・冬まつりの協力は漸次減少し、雪像づくりも、これからは市民が中心の段階に入って来た。歴代の自衛隊員の皆さん長い間本当にご苦労様。私の感慨ばかりでなく大方の道民の気持ちであろう。
これからの北海道の主要産業の一つは観光となるだろう。30年代と比べれば、飛行場も増え、冬の道路の除雪も整っている。(戦前は除雪というより、踏み固める踏雪であった。)来道の観光客も国際化して、雪を珍しがる外国人が増えてくると、冬まつりの内容は更にヴァラエティに富んだものになり、又これを中心として道内の冬の広域観光が開けていくことになるだろう。自衛隊が市民に溶け込み、子供達の夢を育むために造って来た大雪像は、今や国内外に誇るべき観光資源になったのである。旭橋の上や石狩川の堤防から俯瞰する冬まつりの会場の巨大な雪像は、札幌の大通公園で仰ぎ見る雪像群とは、又別の素晴らしさである。自衛隊員の旭川の冬の結晶として、いつまでもその姿を残して貰いたいと祈っている。
※「旭川冬まつり」のサイト http://www.ccia.or.jp/event/winter/ |